黄色い建物のある風景
精神の影で対象(モティーフ)をゆする画家 |
美術評論家 ヨシダ ヨシエ |
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南宋画では、「山水の丘壑、壑は、谷の意を写す」などというが、平松利昭の絵画は、そのモティーフが今回の展示のように、多様にわたっても、画家自身の固有な精神の影を宿した空間の性格をもっている。それは特に、平松の好む黒と灰色、ときにはエドヴァルト・ムンクふうの不安や憂愁の色のコンポジションとして配置させるバーント・センナの褐色系の対比が、画家の精神のうごきを表出しているのだ。まさに、「胸中の丘壑」ではないか。それは交換不能の絶対性をもって、平松の画面に反映しているから、一種独特の、というか、いってみればキルケゴール的な実存の同様をはらんでいるのである。 事実、平松の絵画空間は、それがヨーロッパの街並を描いても、そこにいた大道芸人であっても、あるいはミクスト・メディアの裸婦素描であっても、柘榴や彼岸花のような花を対象としても、客観的なまなざしを噛みくだくような画家の内部の波が押し寄せるのだ。 平松利昭のみたヨーロッパの街並みは、こうしてゆれうごき、裸婦たちは生の不安の存在としてとらえられ、街頭芸人は黒い風にまきこまれて音をのみこんで、かけがえのない、かれひとりだけの孤独を演じる実存的イマージュになるのである。 平松利昭は、あまり気を張らんで、身近かにみたものをモティフにした、とわたしに呟いたが、日常の隅々にまで精神の反映の影で染め上げる、実はしたたかな画家なのだ。 |