<陽明学の創始者王陽明の生涯と知行合一>

 

472年に中国の上海のすぐ南の余姚という所で生まれています。余姚は、招興酒で有名な招興という町のすぐそばです。当時日本は戦国時代でした。この陽明の生涯を幾つかに分けることができますが、私の場合は大体3つに分けます。で、1つは生まれてから35歳までで、実は35歳の時に投獄されますが、それまでの道を求める迷いと苦難の時代ですね、それを「文武修行時代」と私は言っています。次の時代が「文人の時代」、要するに思想を極め深めていく時代です。陽明学を提唱して、中央政府に戻って、弟子たちと共に学び合う時代がだいたい44歳までの9年間続きます。3番目、「文武両道の時代」と私は言っていますけれど、45歳で今で言う検察庁長官の職につきます。それから以降は治安維持のために奔走する武人としての生涯になっていきます。    もちろん、弟子たちとの勉強も欠かしませんが、45歳以降から57歳で亡くなる迄の12年間は、ずっと武人の時代になります。士大夫あるいは、読書人・知識人という、要するにエリート官僚に成るための階級があるんです、そんな家に生まれます。以来、朱子学を必然的学ばされますけど、それに満足出来ない陽明は、任侠道、武芸、兵法、詩文(文学・芸術)それから仏教、道教、大体この5つの道に迷います。これを5つの道に溺れるという意味で、五溺と言っています。その間は、13歳で母をなくし、17歳で結婚して、28歳で、彼の彼の場合ちょっと遅いんですね、いろいろな道に迷っていますのでどうしても受験勉強に集中できないということがありましたので、やっと科挙に合格して役人になります。30歳でハードワークと夜遅くまでの独学がたたり、肺病にかかって、転地療養のために田舎に帰ります、そこで初めての挫折を体験します。で、33歳で復職しますが、以後死ぬまで肺病の再発との闘いが続きます。この王陽明の生きた時代が、明代で最も政治が乱れた時代なんです。ですがやはり最悪の時代にふさわしく、その明の時代で最も凄い人物が登場してくるわけです。それが王陽明なんです。35歳のときに皇帝の側近の劉瑾という宦官の一味が大変な賄賂政治をやっていました。それを批判した事で投獄されて鞭打ちの刑を受けます。そこで、瀕死の重傷を負って獄中にありましたけれど、怪我が治ったときの37歳のときに今度は左遷という憂き目に遭います。左遷なんですが、本当は死んでこいということなんですね。ベトナムに近い山奥の龍場という僻地に島流しに遭って、そこから彼の人生が大きく変わって……いきます。その左遷の地には、実は食べ物がないんです。住む家もない、毒蛇毒虫、風土病が蔓延しているという未開の土地です。犯罪人が逃亡してそこに逃げ込んじゃうくらいの山奥で、そこには漢民族と違う異民族の人々が住んでいるんです。死んでしまってもおかしくない場所なんです。そこに数名の従者をつれて住み込むんですが、そこで初めて彼は、今まで持ったこともない鋤や鍬を手にし、水を汲み、畑を耕し、家を建てる、そういうまさにアウトドアーみたいな生活を始めます。最悪の環境でしたから当然死への恐怖が出てくると、もう立身出世なんてどうでもいいんですね。そんな中で、道を求めての必死の闘いとでもいうんでしょうか、日夜静かに座る    静座という、これは朱子学でも教える方法ですが、ある種座禅みたいな事をずっとやってまして、で、ある日突然に、人は宇宙と一体である、ということを頭でなく心で体得することができます。で、この場所が龍場という場所でしたので、「龍場の一悟」、というふうに呼ばれるようになりました。最悪の土地でしたがなんと、ここが陽明学発祥の地になります。ここで今まで気づかなかった朱子学の間違いに気づきましたし、ここで陽明学を提唱することになったのです。この地で「知行合一」説を主張し始めます。「先知後行」というのが朱子学の教えだったのですが、それは先に知識を習得して…、要するに正しい知識を修得したら、行動もおのずと正しくなるのではないか、そうゆう考え方なんです。そうなりますと、やっぱり正しい行動を導き出す前にまず知識なんですね。要するに知を極めなければいけない。そして、知を極めた暁に、行動が聖人の様になるんだ、という考え方なんですね。陽明は、知と行、知識と行動でも、思いと行動でもいいでしょうけど、それらはもともと一つのものである、ということに気がつくのです。で、通常はこれを言行一致というふうに理解している方が多いんですが、言行一致という理解は実は陽明学からは、ちょっとずれています。言行一致の場合は言っている事とやっていることを一致させなきゃいかん、という行動強調論あるいは、経験主義・体験主義になってしまって、実はそういう理解のしかたをしちゃいますと、王陽明の言っている他の説、例えば「心即理」ですとか、「事上磨錬」ですとかいろんな説がありますが、それらと矛盾してしまうんですね。知ることと行うこと、思いと行動は、別個のものではない、ということを彼はそこで主張し始めます。でも、朱子学を勉強している人は先に知を極め次にそれを行動に移そうみたいなそういう発想がありましたから、なかなか納得できないんですが、王陽明の説明によってどんどんこの龍場という場所で弟子が増えていきます。で、運良く劉瑾ら悪者達が失脚して、彼は中央に呼び戻されますが、45歳で、さっきも言いましたように検察庁長官の職に就くことになります。陽明の生きた時代は、一番治安の悪い時代でしたから反乱あるいは農民の一揆を鎮圧する、異民族の進入をくい止める、そういう仕事に就くんです。彼自身は、文人でしたが、幼い頃から武の方にも非常に関心がありまして、武芸・兵法もやってましたので白羽の矢が立ったんです。この間、46歳の時には、「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」ということを言っています。これは、非常に有名な王陽明の言葉ですね。賊を退治するのは簡単なんだけれども、心の中にいる賊を退治することは非常に難しい。これは当然自分の事にも言えますし、相手の心の底にいる賊を退治するのも難しい、という両方の意味ですね。賊が降参しましたということを言ってきますけれども、心の底から観念してなければまた彼らは反乱を繰り返すんですね。48歳のときに皇族の一人がクーデターを起こします。これなどもわずか2週間で鎮圧します。彼は連戦連勝で負けを知らないという戦いぶりなんですね。指揮、命令だけをするんでなくて彼自身も弓を取ったり刀を抜いたりで肉弾戦を試みています基本的には、少数精鋭で動くという、戦い方をします。というのは、大軍団を指揮して動いたら、敵にその動きが全部筒抜けになってしまんですね。大部隊を動かすということは彼はほとんど考えないんです。大部隊はおいといて、自分が最も信頼する弟子達を中心にしてできあがった精鋭の部隊を自分が率いてって、直接戦うとという方法をとってるんです。50歳の時に陸軍大臣控えという補佐みたいなそういう職に就きます。これが彼の役職では頂点です。「抜本塞源」という言葉も有名ですけども、これも彼が言った言葉ですね。根本から誤りを是正しなければいけないという意味です。彼自身実はとても清廉潔白でしたから、賄賂を一切とりません。なおかつ非常に煙たがる勢力が皇帝の側近の中にもいたのです。彼を煙たがる勢力によっていろんな非難中傷いやがらせが行われます。要するに私利私欲にかられる連中にとっては目の上のたんこぶなんですね。その勢力によって、陽明は、各地の賊の鎮圧の命令を受けますから、そのたびに病気の身でありながら戦いに出て行くんです。それもやはり皇帝の命令ということであれば反発できない。最終的には、57歳の時、遠征地で亡くなってしまいます。非常に清廉潔白に生きたことによって、政敵によって死に追いやられるという最後でした。ただ、そうはいいましても彼を尊敬する勢力もたくさんいましたので、その人達がますます彼の考えを、彼の志を受け継いで広めていくことになります。文人としても一流で、武人としても一流で、なおかつ一滴の血も流さないで戦いに勝つなどということもやってのけています。戦場となって、荒れ果てた地域には学校を造ったり、被災者や貧民の為に自分の私財をなげうって救済につとめるということで、ほとんど一生貧乏で終わっています。


林田明大講演録より