見る者は、見られるものなしに存在できない
私達は、通常、この世界というのは2つの物が対立する世界というふうにやっぱり見てしまってるんです。それはもう、どうしょうもなく見てしまっているんです。
その典型的な例が損得なんですね。要するに損か得か。で、この損することと得すること、ということがそれぞれ客観的に存在する。とどこかで思って生きているんです。私たちにはそういう価値観が染みついています。言い換えれば、男と女というふうに非常に対立的にものを見てしまったり、善と悪というふうに見てしまったり、あるいは正義と不正義、あるいは陰と陽とか過去と未来とか生と死とか昼と夜とかいうふうに、あらゆる物に対立項があるという価値観を、実は持ってしまっているんですね。そうするとこの世は常に対立する世界であるわけです。人間と自然ですとかね、これはヨーロッパ人にとってはもう自明の理で、人間にとって自然というのは対立する存在であるわけです。だから自然を改革しょう、作り替えようという、そういう発想が出てくるわけです。物事が対立する世界で生きているということは、男と女も肉眼で見るとね当然個別に存在すると思ってしまう。善と悪も損と得も別個に存在していると思っている。簡単に言えば、見るものと見られるものという関係があります。ここに缶がありますか゛、私が見るもので缶の方は見られるものですね。そうすると単純に考えますと、これ別個に存在していると思ってしまいます。缶は俺じゃないわけですから、俺じゃないというふうになるわけです。あなたも、私にとっては私でもないものなんですよね。でももっと深く考えていきますと、見られるものは、見るものがなければ存在し得ないんですね。お互いに相互依存の関係にあるんです。見るものだけでは、もうこの世界は成立しないんです。私という言葉はあなたという、あるいは汝という存在があるから、私という単語があるわけですよね。私だけでしたら、私以外に何者も存在しなかったら、私と言う必要はないわけですよ。ということは、あなたという存在によって私が成り立っているってことなんです。つまり相互依存の関係です。損と得の関係も、男と女の関係も同じことがいえます。ということは、本当はバラバラに存在していない、分かれていない、2つで1つだということなのです。
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林田明大講演録