感謝の念

林田明大氏とお付き合いの中で、いろいろな資料をいただきました。

勉強になるもの中から鍵山秀三郎氏の対談集の抜粋を書き出してみました。

 

損得の陰に損得あり
振り返ってみると、日本の社会は、見方によっていろいろあるでしょうが、全体から言えば、間違いなく悪くなっていると思います。にもかかわらず、そういうことに対して的確な手を打とうという人が出てこない。その理由の一つは、
「自分さえよければ」という考え方です。そして「より早く、より多く手に入れよう」とすることによってツケを残し、そのツケがが次々と出てきています。私は最近「損得の陰に損得あり」ということをよく言うんです。損得というと誰も得のほうを選びますが、選んだ得の後ろにまた損得がありあるというように、損得というのは続いているということです。目の前にあるものを得と思って取った陰に大きな損がある。あるいは、その次も得かもしれないけれど、その先にまた大きな損があるということがよくあります。これが、世の中が良くならない原因です。みんなが目先の得ばかりを取った揚げ句に、社会的損失、国家的損失、大きなレベルでの損失が生まれてきています。「これじゃいけない」と思ってもこれまでは、「一人では何もできない」と諦めていた人たちが、掃除という縁を通して、損とか得などを考えず純粋な気持ちで何万という人たちがつながってきました。「掃除に学ぶ会」のこの一年を振り返るとそんな気がいたします。

観念論の怖さ
ナチスの虐殺がそうです。ユダヤ人を何百万人も殺しながら、それを命令した人はポーランドのアウシュビッツの収容所に一度も行っていないそうです。収容所の様子を見ずに執務室の机上で、30万人、50万人を殺すという命令書を書く。アウシュビッツの実態を見たらそうやすやすと命令などできません。今の日本は政治家もお役人も、みんな机上でいろいろなものをつくりあげてポンと下に投げ与えて、それが達成できたかどうかだけを追求する。だから、世の中が悪くなるんです。

掃除をすると?
要するに、掃除をすると、人間が自然農法で育てられた農作物みたいになるんです。私はその違いだと思います。自然農法か化学肥料か。これは見た目には分かりませんが、味が違う。持ちが違う。そういうところに出てきます。

お店は育てるもの
オーナーに対しての教育ということもないのですが、いまお店を一つの施設、モノと見て商売のために使うという考え方が多いですね。これでは開店したときから、日々に劣化していきます。お店というものは生かしていくものです。しかし、これでもだめです。私が強調したいのは、
お店は育てるものだということです。そうすると、日に日に良くなっていく。この差は、開店時系列で見ていくと、五年後になると雲泥の差になります。十年後になったら、モノと見ているお店は見る影もありませんが、育てるお店は「ほう、十年も経っているんですか」というふうになる。そして、こういう考え方が血肉のようになっていけば、社員も一緒に育つと考えています。これは会社でも組織でも同じです。「掃除に学ぶ会」もそうです。ただ運動として広めるのではなく、この運動を育てる、それが大事ではないかと思います。まず第一に、きれいにするということです。神社仏閣などがそうですね。このきれいにするというのは°分母″です。この上に何を乗せるかですがいろいろ乗せてみたらいいと思います。そして、これで行くと決めたら、それに特化していく。特化というのは、千人がみて千人とも「ほおっ、この店はこういう素晴らしさがあるのか」と評価されることです。神社仏閣もそうです。そのもとはきれいであるということです。その上に、その神社仏閣の特化されたものがあります。清水寺はこうだとか、興福寺はこうだとか、東大寺はこうだとか、それぞれ特化しています。特化というのは、非常に難しいんです。例えば、「このお店はやさしいお店です」と言っても、千人のうち百人が「いや、あそこはトロットとしている」という見方をするかもしれない。やさしさは早く言えば、鈍いことにもつながります。それを「やさしだ」というふうに、千人が千人見てくれたときに、初めてそれは特化したと言えるわけです。芸術でも、何でも、長い歴史のなかで残ってきたものはみんな特化されたものです。浮世絵師でも広重や北斎だけではありません。同時代にたくさんいたわけでわけです。けれども、二百何十年も続けて残ってきたものは、ごくわずかな人でした。それはその時代に特化されたものだったからです。

人生の大原則
「感謝の念がまことの働きを生み出す」と言う言葉があります。これが人生の大原則だと思うのです。小さなことに感動できる人、小さなことを喜べる人、感動できる人ほど幸せだと思います。そういう意味で、感謝こそ人生を潤す花だと思うのです。

1998−10 致知(致知出版社)より