辛いことトラブルから逃げてばかりいては、
心は鍛えられない
ですが、晴れの日だけを求めることによって、その人は苦痛を倍加しているんです。晴れの日があって、雨の日があって台風が来て、それが自然なことなんです。例えば、一生健康ではあり得ないです。ではあり得ないです。病気になってみて初めて健康のありがたみがわかりますし、病気になるのも当たり前のことなんです。自然の摂理なんです。ただ、晴れがあって雨があって台風が来て、あるいは伝染病が流行ったり地震が来たり、こういうことは、あって当たり前の事なんだから、当たり前の事として、理解していけばいいんですよ。そうすると運命を肯定的に受け入れることができる。何でも自分の都合で拒否する、拒否反応が強いと苦しむわけです。何で私だけこんな目にあうんだろうとか、何で今日は雨なんだろうとかとかですね。余計な、悩みを一杯かかえちゃうわけです。でも、人生を幸福ばかりで埋めようとするから苦しいわけです。つらいことがあって当たり前なんですよ。人間って、分けて考えてしまいますから、常に幸せだけを追い求め楽しいことだけを追い求め、つらいことから逃げまくる。そうすると心は鍛えられない。 目の前にあるトラブルとか、苦難とか困難とかいうのは、自分の心を鍛えるための1つのツールなんです。神様がテーマを与えるんです。「あなたね、こういう問題解いてみな。」「このハードルを乗り越えてみな、クリアーしてみな。」ということなんです。とにかくその条件が悪ければ悪いほど、大変な苦労と困難が伴うわけですけれども、でもそこから逃げないという習慣を身につけることによって心が強くなっていきます。話は変わりますが、実は雀鬼流では日常生活をおろそかにしていては麻雀には勝てない。と教えています。日常生活をちやらんぽらんにしている人には麻雀の勝利はありえない。たまたまの勝利はあるでしょうけれど。練習と本番を分けてかんがえるなという別の教えに通じます。それはどうしてかと言いますと、練習だからと、たいがいの人は気を抜くわけです。練習だからという、もうそういう発想がありますから、つまり練習と本番を分けて考えているんです。でも、練習だからといって気を抜いていて本当に力がつくでしょうか。勝つつもりで練習していないと本当の力はつかないんです。本番のつもりで練習するからこそ初めて本番に役に立つ内容のある練習ができるわけです。たいがいの人は練習だからって引いてしまってますね。で、それと同じで麻雀のときだけ、勝ちを求めるというのは、無理があるのです。自分の日常生活の中では、仕事がちゃんとできればそれでいいとか、雀荘に行ったときだけちゃんとやれば、一所懸命やらなくても、適当でいいんだっていうふうに、たいがいの人が思ってしまう。ですが、日常生活の中の例えば整理整頓ですとか、あるいは茶碗をちゃんと洗うですとか布団をちゃんとたたむですとか、きちんと自分を律する生活をやってて、初めて職場でもいい仕事ができ、まあ麻雀の世界でも勝てるわけです。で、普通はそうじゃないんですよね、日常生活では自分を律しない。要するにある種、気を緩めて生きていますから。でも、都合のいい時だけ一所懸命になれば勝てると思っていますが、それはやっぱり無理があるんですね。日常生活でちゃらんぽらんな人は、そのちゃらんぽらんさが仕事にもやっぱり滲みでてくるんですね。それは勝負の世界にも滲み出ていく。 |
林田明大講演録より