この世の中すべてのものは、

バラバラに存在しているのではない

 

心があります。感覚器官の目があっても、その感覚器官を通して見るのはその心なんですね。心が感覚器官という目を通してものを見るわけです。結局、この三者、見られるものと感覚器官の目と心というのはお互いがお互いを必要とする関係なんです。もし、見られるものであるところの物が存在しなのであれば、目の存在価値はない。あるいは心がなければ目の存在価値もない。死体にだって目はあるんですから。で、そういう意味で、けっしてこの世の中の物も私たちもばらばらに存在しているのではないんですね。そして、「般若心経」でも同じ教えを説いてます。私がここで何か話をしてますが、話の内容は私の場合は、例えば、どこからか蓄積してきた経験なり体験なり、あるいは本から読んだ知識なり、そういうものによってこうやって話をするわけです。私の目の前にいる人は、やっぱり私の話を聞いてなんらかのリアクションを外に出たときに起こしたりしますよね。そうしますと、どこからどこまでが僕のもので、どこからどこまでが目の前にいる人のものでという、実はこれをはっきりさせるということは非常に難しいんです。私の皮膚の内側は自分自身だと思って生きてます。では、本当に自分の世界はあるのかっていったら、それを突き詰めようと思ったらこれは難しいんですよ。多くのものの影響によって私は成り立っているし、相手から得た言葉によって私は変わったり、私が放った言葉によってその人が変わったりしていきます。ですからお互いにこっからここまであんたの世界で、ここからここまでが私の世界っていうのを、はっきりさせるのは難しいということなんです。ここにもし、きかん坊がいてですよ、「こいつ、俺の子供じゃないからいいや」と放っといたらこの子が15年後に麻原彰晃みたいな人に成るかもしれない。で、麻原彰晃みたいな人になっちゃったら今度は自分の子供とか孫が被害にあうかもしれない。そうすると、ここにいる子供の存在が自分の人生にとって、決して無関係でないってことなんですよね。ですが、多くの人々が、無関係だというところで生きてますよね。でも、あるとき関係があったということに、気がつくんでしょうけれども。気がつかない人は一生気がつかないかもしれない。さて、どうして、人は迷い悩み苦しむのかと言えば、世界が2つの対立した物によってできあがっている、というふうに見ることによって、あるいは、ばらばらに存在している、別個に存在しているというふうに見ることによって、心が揺れてしまうからなのです。要するにそれは、主観的な物の見方なんですね。自分自身の物の見方なんですよ。あるいは、迷いと悟りについても同じことが言えます。悟りは欲しいけれど、迷いはいらないよと、たいてい思ってしまっている。ですが迷いがあるからこそ悟りがある、迷いと悟りは2つでひとつなのです。


林田明大講演録より