陽明学とは 心の陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教え。万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、不動心を確立する教え。
知識や情報を増やすことよりも、心の歪みをなくすことや我欲を減らす努力が、心の中に生じるさまざまな葛藤をなくし、本来、心に備わっている無限のパワーを回復して人間性を高める唯一の手段であることを、陽明は悟ったのである。 <心即理>とは陽明学の花であり、基本的な考え方をいう。
心というものは、その姿は空っぽ(虚)なので何もありませんのが、霊妙な働きを持っていて、万事万物の理がすべてそこに備わっています。心は、あらゆるものがそこから出てくる源泉なのです。ですから、心の外に理があるはずがなく、心の外に事があるはずもないのです。(『伝習録』上巻)
どんなに尊いといわれている教えであっても、学ぶ側の心が納得できなければ、身体がついていけないものであり、知識をどんなに詰め込んでみても、心を無視しては人間性を育む事はできない。
「私」と「私でないもの」とのギャップを解消し、心の葛藤をなくして、不動心を確立するためにすることである。良知を致すこと、誠を尽くすこととは、決して自分に嘘をつかないこと」嘘をつくと、どうして良くないのか。嘘をつくと、本音と建前の分離が始まる。外の世界と内なる心の世界の不一致が生じる。言葉と心は一体でトータルであることが、本当の人間のあり方である。嘘をつくということは、言葉と心に、さらには言葉と行動に分離をもたらす。人間に裏表があると、やがて無力感にとらわれ、生きる喜びが味わえなくなってしまうのである。 正義の主張のためには、利害だけではなく、生死ををも越えるべきだとして「殺身成仁」を説いた。「身を殺して仁を成す」という意味の言葉は、もともとは孔子の言葉である。陽明は、「誠」や「仁」(友愛、道義、正義)が、生死の問題よりも優先すると説いた。「殺身成仁」的境地とは、言い換えれば、死への恐怖を克服し、「不動心」を確立した境地のことである。「万物一体の仁」の境地のことである。 「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」陽明は、人々は日々、心の掃除や洗濯に努めなければ、いつのまにか心は輝きを失い、曇ってしまったり、病気になってしまう、と心の問題を解いたのである。心の浄化が、自然環境や人間社会の浄化につながっていく。
人間なら惻隠の心(仁)、すなわち他人の不幸をあわれみいたむ同情心。羞悪の心(義)、すなわち悪を恥じ、憎む正義感。恭敬の心(礼)、すなわち長者をつつしみ敬う尊敬心。是非の心(智)、すなわち善悪を見分ける判断力。
陽明は、社会問題は心の問題であることに、気づき、心のパワーに気づき、さらに心の奥底にある「良知」の存在に気づいたのである。そこで、陽明は、悪を根本から取り除かねばならないという「抜本塞源の論」を主張して、痛烈に社会を批判した。 四句教の教え
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「真説・陽明学入門」(三五館 林田明大著)より抜粋