上杉鷹山を越える、財政家山田方谷
 

  今日は実は岡山県の高梁市の方からこちらへ直接やってきました。高梁市は昔は松山藩という小藩だったんですが、そこの藩政改革あるいは財政改革を成し遂げました山田方谷という陽明学者がいまして、今日がその方の命日なんですね。没年120年祭のセレモニーが今日の午前中からいま現在続いて行われてまして、ちょうど方谷祭の話しを知ったときには、もうこの講演会がきまっておりました。私は、昨日夕方に、関係者の方に挨拶等は済ませることができました。
 山田方谷のことをご存じの方はどなたかいらっしやいますか、お名前ぐらいとか。上杉鷹山という名前をご存じの方いらっしゃいますか。結構多いんですね。結局これが現実なんですが、
実は山田方谷という人が上杉鷹山の、多分10倍かもっとそれ以上の実績を残した財政改革家なんですね。今日は命日ということもありますのでその変のことを簡単に説明します。
 鷹山の場合は、米沢藩15万石の藩主で、そこで財政改革、あるいは藩政改革家として、手腕を発揮しまして名君と言われました。20万両ありました藩の借金を返して、さらに5千両の余剰金を残したと言われている上杉鷹山の場合は、実はそういう結果を生んだのは鷹山が死んだ後のことなのです。それも明治維新の直前の時期に、つまり、その改革に要した時間はといいますと、
大体短く見ても50年以上、長く見て90年近い時間がかかっています。
山田方谷の場合は、松山藩は5万石なんですが、実は実質2万石というふうに言われてまして、藩の借財は10万両あったんですね。で、その10万両の借財を返し終えて、なおかつ10万両の余剰金を残すのに要したその
期間というのが8年間なんですね。方谷が17歳の時に鷹山が72歳で亡くなっていますからレートの問題はそれほど大きな開きはないと思いますので、そういう意味でもやはり、山田方谷という藩政改革家の凄さというのがお分かりいただけると思います。
 一般的には、有名だから本物だ、というような、どうしても私達はそういう信仰を持ちがちですけども、有名でなくとも本物は存在する、という事を、ここで一度確認していただければと思います。
 その方谷は、備中聖人というふうに呼ばれておりますが、方谷が生きたころは、板倉というお殿様がその松山藩の藩主なんです。参勤交代の折りに、籠かきが雇われるんですね。その籠かきたちが
「貧乏板倉」と、そういう悪口をいうわけです。それくらいに、下々の人達にも板倉勝静の松山藩がいかに財政的危機にあったかという事が知れ渡っている。で、その財政危機を見事にクリアーして、他の藩農民達が松山藩を羨むほどの改革の成功ぶりを見せるわけです。で、松山藩の農民たちは、山田方谷のことを、生き神様というふうに崇め奉るんですね。
 この
方谷の一番弟子が、越後の長岡藩の河井継之助です。戊辰戦争で、官軍と戦って死んでしまいますけど、この人も未だに尊敬する人が多い陽明学者です。この河井継之助自身、山田方谷の仕事ぶりをつぶさに観察することによって藩政改革のノウハウを身につけて自分の藩に帰っていくんですね。
 
方谷の場合は、亡くなるときに実は「王陽明全集」という王陽明の全集を持ってこさせまして、枕もとを清めさせて、それを枕もとに置いてそのまんま目を閉じて亡くなってしまう。それくらいに王陽明を非常に尊敬していた人物です。ですから、陽明学を、生きる上での指針あるいは行動の指針と考えて藩政改革、財政改革をやり遂げたということがお分かりいただけると思います。
 山田方谷という人は、明治10年の今日亡くなりましたども。松山藩は実は幕府側につきましたものですから、官軍から敵視されて相当つらい思いをするんですが、最終的に、官軍との全面衝突を避けて、要するに謝罪をするということで松山藩はなんとか生き延びるんです。反明治政府とはいえ、方谷の財政家としての手腕をどうしても欲しい。ということで明治政府から盛んに声がかかるわけですね。ですが、方谷は、それをどうしても受けないで、教育という分野で終わっていきます。お弟子さんにはそうそうたる人がたくさん出ていまして、二松学舎という大学がいま東京にありますが、創設者の   
三島中洲という陽明学者は、この山田方谷の高弟にあたります。 


林田明大講演録より