尾道
障害者とパソコン
都会では……
欲望
枇杷について
RES就職
ノー距離感
キューティー桃
辞世の句
サーカス
ショパン・コンペティション
 

 
尾道
 
尾道の漁師町をNHKが紹介している。
路地裏でアナゴを焼いて売るおばさん。
それを見て思い出した。
 
僕の家の雑煮の話。
覚えていますか?
 
すましの出汁に水菜とか揚げとか、あっさり風な雑煮の上に、念入りにタレ焼きして刻んだアナゴを、ぱらぱらとのせて食べます。
 
この、アナゴの刻んだのをのせる部分が謎でした。
当然、府中市周辺の一般的な雑煮のパターンだと思っていたら、近所にそういうのはなかったのです。
福山地方でも聞きません。
今年の正月に、弟が、
「兄ちゃん、わかったで」
といいます。
尾道の方に、そういう雑煮を作るところがあるというのです。
いわれてみると、僕の記憶の蔵の中で、少しずつ鮮やかになってきたものがありました。
 
祖父に連れられて、幼児の僕が、港町を歩いているのです。
道ばたには、乾物を売る店がありました。
いつも福山の方しか意識がなかったけど、ふるさとの家の前の道を福山と反対側に行けば、案外尾道が近いことも、家を出たあとで知ったし。
 
おおっ!
今、ほら、テレビで、みんな、年寄りたちがアナゴを焼いとる。
「ほいじゃけえねぇ……」
なつかしい、あったかい方言。
 
 

 
 
障害者とパソコン
 
機会に恵まれて、通産省の「アクセシビィリティ指針」の説明会にいきました。
 
アクセシビィリティ指針というのは、身体の不自由な人たちのためのパソコン周辺機器やソフトの開発についての指針です。
身体の不自由な人たちと企業と国(通産省)が手を携えて開発し普及に努めています。
厚生省の補助事業も、この指針にそった機器等の研究開発に対して行われています。
 
現在160数社から300種類以上の機器等が開発され発売されています。
ほとんど知られていませんが。
それらは「こころWeb」としてインターネット上にも公開されています。
「アクセシビィリティ指針」では、「障害者等」と表記しています。
「等」とは、たとえば手のふるえるお年寄り。
キーボード上にのせて使うカバーには、穴が開いていて、穴から指を入れてキーを押せば、手がふるえる人も平気です。
手が不自由で、口に棒をくわえてキーボードを操作する人も、このカバーを併用するとミスタッチが防げます。
 
IBMからきた講師の女性は、知人の全盲の大学生が、大学でノートをとるときやインターネットを楽しむときに、実に見事な「ブラインドタッチ」でパソコンを操るといった話を紹介したあとで、この言葉も使ったらいけないんですよねと、さみしそうに付け加えられたのが印象的でした。
余談ですが。
 
点字ディスプレーなどというものの存在すら知らず、全盲の人がインターネットをやるなんて想像もできなかった僕にとっては、大きな驚きの連続であり、素晴らしい事業だと思いました。
 
しかし、F−20改さん。
何でも知ってるんですねえ。
僕の相棒は「障碍者」という表記を使いますが、僕のまわりでは彼だけです。
僕の手元にある国の文書も「障害者」という表記だし……。
なぜかというと、「碍」の字は表外字なのです。
常用漢字は、私人にそれ以外の漢字の使用を禁止するものではありませんが、公的には、使わないことになっています。
表外字は、新聞も、原則として使いません。
もちろん、僕のせいじゃありません。
僕は悪くないです。(^.^)
 
しかし、確かに、傷つくという人もいるかもしれませんよね。
IBMの敏腕女性講師の知人のような、タフで、健常者顔負けの若者ばかりじゃないでしょう。
 
こんなテーマでだれか議論してましたよね。
逆に、言葉狩りに抗議して筆を折った作家もいましたね。
僕はどうか。
うーん。
そう。僕は、「おじさん」と呼ばれると生傷に指を突っ込まれたような痛みを感じます。
不愉快です。(^.^)
「お兄さん」の表記に変えるよう強く抗議します。 v(^o^)
 
 

 
 
都会では……
 
隣の部屋で仕事をしていた人が、トイレの窓から飛び降りました。
地上8階。
33歳。
男。
妻あり。
NHKテレビと、山陽新聞が小さく報じました。
上司は僕の知人で、僕なんかよりずっと優しいタイプなのに。
言葉がありません。
 
 

 

 
欲望
 
おもしろい話を聞いた。
人間の欲望について。
人間の基本的な欲望は、自由と平等。
多少の誤解を恐れずにいえば、自由は資本主義を招来し、平等は共産主義を招来する。
 
そして、この自由と平等だが、人間は、
・ものが貧しいときは「平等」に向かい、
・豊かになると「自由」に向かう
 
資本主義は競争社会。
自由な競争原理が支配する社会は、人間の基本的な欲望に忠実な社会でもあると。
 
同感だよね。
僕は、ただ戦うことが好きだった訳じゃないんだ。
人間の欲望に忠実だっただけだ。
 
なんか、もやもやと、そんな感じは持っていたけど、気持ちというか、考え方を整理することができたような気がした。
 
どこかの、というか、最近の小学校では、競争をさせない傾向が出てきているとテレビで報じていたけど、とんでもない話でしょう。
健全な競争社会の疑似体験をさせることも小学校に課せられた使命のひとつだと思うけど。
勉強できない子が可哀想だ?
でも、それじゃ、一生温室で育てるしかない。
社会で生きていけるように、育ててあげなくちゃ。
やめよう。
彼らには絶望したはずなのに。
まだこんなことを書いたりしている未練な僕。
 
健全な競争はするけど、同時に近代国家は、満ち足りた社会は戦わない、という意味もあるそう。
少子化に向かっていれば、領土も食料も不足しにくい訳で、だとすれば、死にものぐるいで命がけの戦争に踏み込む危険は少ない、と。
 
つまり、少子化の国はものが不足しないから自分からは仕掛けない。
仕掛ける必要がない。
 
事実、近代に於いて、先進国同士の戦争は無いという。
たしかに、たいてい片方は、発展途上の独裁者の国ですか。
(イスラエルのケースは特殊なような気もしますが)
そういわれれば、北朝鮮は、物乞いするのが嫌なら、戦い奪うしかないところまで追いつめられているわけで。
怖いですねえ。
条件がそろっている。(ΘιΘ)
 
 
そして,欠乏感は人間を突き上げ、突き動かすが、欲しかったものがそろってしまえば、別にどうということはない、むなしさに包まれる。
終戦直後、食べるものが無くて、白いご飯が腹一杯食べたい。
腹一杯食べることができたらどんなに幸せだろうと思い続けて大きくなった。
と、その壇上の人はいった。
でも、今は、白いご飯を腹一杯、毎日食べているけど、ちっとも幸せではありません。とも。
 
 
欲しかったものが手に入ったからといって、無かったときに望んでいたほどの幸せは、なぜか、感じられない、のだと。
 
(話が飛びますが。)
(なんとか付いてきてくださいね。)
僕はそれは、僕の人間的な冷たさ、冷淡さだと、実は秘かに思い、恥じていた。
でも、自然なことだったんですね。
だいさん、大丈夫です。
君も冷たい人間な訳じゃない。
欲しかったものが手に入ってしまうと、手にした瞬間から、無感動な、「こんなはずじゃなかった」人生に向かうのです。
むなしいなあ。(ΘιΘ)
 
 

 

 
枇杷について
 
最近、夕食を終えた僕の前に、妻が、黙ってビワの実を出す。
彼女が知るはずもないが、ビワは、僕の憧れの果物なのだった。
 
おそらくは南国育ちの、高貴なあの姿に、少年時代の僕は憧れていた。
もちろん、食べたことなどなかった。
お店の棚に並べられているのを虚しく眺めるだけ。
 
たいていはお皿に盛られていて、およそお皿に盛られる果物の中では、異色の、ほかの皿の上の果物たちとは厳然と一線を画したエリート果物。
その名は「ビワ」!!! みたいな奇妙な思い入れが僕にはある。
 
それなのに、いざ食べてみると、結構面倒で、普通だと、二つも食べればもうたくさん。
先日、今年初めてビワと対面したとき、二つ食べて席を立とうとしたら、「もう少し食べ」とかいわれ、「いや、もういい」とこたえ。
今日は、はじめから、お皿に二つだけ乗っていた。
 
岡山にもビワの木があることを知ってからは、特別な思いもさほどではないけど、無花果に似た形で無花果ほどデカくなく、ほどよい上品な大きさで、無花果みたいにだらしなく開いたりしない慎ましさがある。
 
う〜む。
なんか、女性の話みたいになってきたなあ。
くわばらくわばら。
 
 
                                       ムッシュ
 
 
ビワ、食べなきゃよかった。
あんなに憧れていたのに、いざ食べてしまえばがっかりですよ。
 
「一番大切なものは職業にしない」のなら、「愛しているなら結婚しない」覚悟が必要になる理屈ですよね。
 
人生は不可解です。
 
 

 

 
RES就職
 
無視していたわけではないのです。>NABE改め風の谷の……さん
実は、長文のレスを書いては、そのあまりの冷淡さにファイルを消去してしまい、翌日再び書いた文章も、読み返してみると若い人に対しては過酷すぎる内容のように思え、深く反省し、またまたアップを見送ったのでした。
 
さて、今回はどうでしょう。(^.^)
まずは、冷静に問題点を整理して考える必要があります。
質問は、「バイト」か「就職」かですが、その前提として、どういう考えでどんな就職活動をした結果が現在なのか……。
それによって答えは分かれてくると思います。
 
僕がなにをいいたいのか。
いいですか。
大学を受験したときのことを思い出してみてください。
趣味とか希望の進路とかいうものがあったかどうかは別にして、現実的な進路選択の条件というか判断の物差しとしては、自分の学力と大学の難易度だったはずでしょう。
そういう条件というものは、就職の場合にしても、基本的に同じですよね。
自分の実力で受かる可能性のあるところを受ける。
第一志望から滑り止めまで。
 
大学受験の場合は、判定が比較的客観的な基準によってなされ、就職の場合は、点数だけでなく人物を見ますから、どうしても主観的な判断の部分が入ってきますが。
それにしても普通は複数の人事担当者による判定になりますから、ある程度は統一をとるように判定基準というものが設定されている場合が多いと思います。
表現が回りくどいとわかりにくいですか。
つまり、就職試験という土俵は、人物を含めた総合評価だから、大学入試の時のような客観性は薄まっているわけです。
そして、そのことは、ともすれば、自分自身に対する自己の評価が甘くなりやすいということ。
何点とかいう、動かしがたい点数の形で評価を突きつけられたりしませんから。
「周りのみんなが、俺を見る目がないんだ」と、うそぶいていられる意味があるのです。
 
 
で、そういうことを厳しく厳正に踏まえた上で、今年就職に失敗した原因を自分自身でどう総括していますか。
その、考えた結果が今後の対策の基本になるわけです。
たとえば、
@実力不相応な高嶺の花ばかり受けた結果ではないのか。
   認めたくないかもしれませんが、お母さんが「適当なとこにはやく落ち着
   いてほしい」と考えておられることから判断すれば、周囲はそう見ている
   可能性があるようにも思えます。
A高嶺の花ばかりを追ったわけではなく、ただ、運が悪かった。
   自分ではどう思いますか。
   今年はバイトをして、来年再挑戦したいみたいだから、ということは、自
   分の考えとしては、たぶんこっちですかね。
 
そういう点を、自分でもう一度冷静に見つめ直して、考えてみてほしいと思います。
大学入試は学力ですが、いうまでもなく、就職試験は総合的な人間としての実力です。
人柄も見られます。
大きなお世話だと思うかもしれないけど、そういうとき、若い人のスタンドプレーはどうも。
そういうタイプを好む人もいますけど。
う〜む。
言葉にすれば「そういうタイプを好む人もいる」ということになりますが、それは若い人なのに歳の割に実力があるなと思わせるタイプの人の場合なんですね。
普通の人がやると陳腐なだけですから。
 
自分の位置を知る方法はいくつかあります。
たとえば、何人か友達がいたら、その中であいつは自分より少し落ちるなと、あなたが日ごろから、心ひそかにそう思っている友人や知人がいるとしましょう。
そうすると、その人たちとあなたとが、だいたい同レベルなのです。
人間、自分には甘いですから。
ねえ? >F20-改さん
だから、彼らが就職したと同レベルの会社なら可能性があります。
そういうところが第一希望なら、ぜひ再挑戦すべきです。
彼らのうち、誰ひとりとして就職できていないとしたら、状況は過酷です。
絶望的です。(^.^)
お母さんにすがって、どこでもいいからコネで潜り込まねばなりません。
 
 
さて、とりあえず、考えた結果、@だという結論に達したのなら、潔くお母さんの助言に従って、そういうことで、分相応なところに潜り込むべきでしょう。
 
考えた結果、いやいや、そうではない。自分はたまたま不運だった。試験当日は朝寝過ごしてあわてたり、腕時計が途中で止まったことに気づかずゆっくり問題を解いていたら突然試験終了の合図のベルが鳴ってしまったのだ。とか、試験はできたのに、面接で人事担当者に恵まれなかっただけなのだ。というのなら、そして、「来年に捲土重来を期す」ことに決めたのなら、今年君のやるべきことは「バイト」なんかではないはずです。
不運にも今年は落ちたが、手応えはあったのだ。
そう思っているのならね。
その場合、まず第一に考えなければならないのは、受験勉強でしょう。
学力試験がある会社なら。
たとえば、公務員を目指すなら勉強しなくちゃ。
むちゃくちゃ難しいそうですから。
それと、自分を磨くこと。
 
仮に就職できたとしても、傲慢で鼻持ちならない人間は誰からも相手にされませんから。
そういう意味で、自分を磨くことは大切です。
おっと、また、アップを断念せざるを得ないような内容になっちゃいそうですね。
まずいなあ。 (^^)
 
ともかく、そういうことです。
別に、首尾よく就職するために限った話ではないけど。
自分を磨くということは、具体的にどうしたらいいかということは、これはむずかしいわけですが。
とりあえずは、常に、自分を磨くんだという心構えを持つことです。
そのためなら、バイト先で社会勉強することも無駄にはならないかもしれません。
生活のバランスさえ考えてやるのならね。
そのあたりは、常識の範囲内で。
 
 
どういう人か知らないわけで、無責任な感じもしますが、一般的には、早くから自分を低く評価してしまう必要はないわけで、そういう意味では、今年一年という時間を、来年の合格のためにすべて費やすのもいいのかなとは思います。
難しいところを目指すのなら、ご両親にはっきり自分の考えを説明すればいいと思いますよ。
正直にね。
来年こそは自信があるとか、自信はないけど、もう一回だけ試してみたいとか。
もういちど、これこれだけの努力してみて、それでだめだったら、あきらめるからとか。
 
そういう道を選択した場合であれば、別に、バイトしなくても文句は出ないと思います。
しっかり物事を考えた上で、計画を持って暮らしているとわかったなら。
むしろ、頼もしく思われたりしてね。
なにを考えているのか、君が頼りないから心配なんでしょう。
 
ただ、いくら僕のいうとおりに振る舞ったとしても、日ごろから口先だけで、信用がなかったら相手にされないかも。
その場合は、結果は保証しません。
そういう人、知ってますから。
(もちろんFさんのことではありませんぜ。旦那)キッパリ
(ン? 僕自身のことか)オロオロ
 
 
みんな気をつかって、前途ある若者を傷つけないように、オブラードに包んでレスしてるから、その分、どうしても、ね。
ソフトで耳障りはいいけど……。
気づいてますか?
 
まあ、良薬は口に苦し。
気を悪くしないで、がんばってください。
 
 
                           ムッシュ
 
 
ps. 偉そうなご託を並べましたが、自分のことは棚に上げています。
  恥ずかしい、できることなら消してしまいたい多くの過去を引きずって生き
  ていることを申し添え、失礼のお詫びに代えます。
  それと、一部では、就職戦争は、もう走り出しているという噂もあります。
  協定違反みたいだけど。
  桃太郎ネットで、のんきにアドバイスを求めている場合ではないかも。
 
 

 

 
ノー距離感
 
距離感というのは、僕らが暮らしていく上で、なくてはならないものだと思います。
逆に、離れすぎては空しいけど、近づきすぎては苦しく負担に感じます。
難しいのは、この距離感というのが一定でないこと。
刻々と変化していく。
結婚式で語られるのは、ハリネズミの夫婦の距離感の話。
近づきすぎては相手を傷つけるし、しかし、温めあうためには離れすぎてはいけない。
離れすぎず、近づきすぎない。
この、絶妙の距離感が大事だと。
 
その呼吸がわかっていく過程のことを、「人生」と置き換えてもいいでしょう。
一人前の大人への道。
 
鯉も煮ています。
いや、恋も似ています。
おもしろい、予期せぬ変換は、生かそう。(^.^)
 
恋も、いまいましいほどに似ている、です。
だから、恋は、たいていの場合、苦しみだったりして。
ああ、あの、一心同体の幻想。
知らない間に、無意識に踏み込み合い、傷つけ合い……。
 
親子の場合も同じ意味がありますよね。
間違え、失敗を繰り返しながら、この、「距離」を探している。
でもまあ、なんでも、一応幅があるから。
幅の中でうまくやっていくことは、それほど難しくもないわけです。
 
友達でも、恋人でも、親子でも。
基本的にはみんな自由であり、それぞれの自由の重なり合う、距離感という、この、不安定な幅の中を、手探りしながら、泳いでいくしかないのです。
言葉にしてしまえば、しらけますが。
でも、そう思います。
 
 

 

 
キューティー桃
 
おもしろい文章があったので、ぜひ紹介したいのです。
長文なので、全体を相当長くしないと、「引用」のルールに触れるかもしれないと思いつつ、おもしろくてタイムリーだから、あえて。
がんばって書きます。
忙しい最中だけど、今年いっぱい、せいぜい書きまくろうぞ!

出典は毎日新聞の「余録」です。
まあ、とにかく、久々のヒットという感じの文章ですから。
ぜひ読んでみてください。(^^)
 
 
 「買ってくれ」、と言うのはやぼだから、別の表現で百万通りに言うのが広告の要諦だそうだ。商品を直接勧めるのではなく、わざと控えめに提案し、応援し、演出してみせる。
 「あなたの暮らし提案します」「何々ライフを応援します」「あなたのきょうを美しく演出します」−−意図的に買い手側に主役を譲って見せた言い方、とカナダの翻訳家イアン・アーシーさんが「超『広告語』勉強法」(「中央口論」10、11月号)で書いている。
 選挙広告も、「一人でも多く当選させてくれ」の一言を、百万通りの言い方で繰り返している。手を替え品を替え、提案、応援、演出してみせている。広告語の時代だ。そんな時代に、ゴキブリを売り出すにはどうしたらいいか、アーシーさんは次のように述べている。
 ゴキとかゴキちゃんと呼んではだめ、思い切って改名するしかない。片仮名英語で「キューティーローチ(かわいいゴキブリ)」とする。大々的なPRのため、目を引くわかりやすいキャッチフレーズが必要だ。たとえば「犬より、猫より、キューティーローチ」
 コピーは「自立型ペットこそ時代のニーズ。何週間もエサをやらなくたってヘイキ。長い留守でもOK。帰ってきたらガサゴソ温かいお出迎え。忙しい現代人の快適ペット。犬より、猫より、キューティーローチ」。「室内を翔ける黒の光沢」と高級感を目指すのも一案だが、商品の大衆性を考えて、思い切って値下げに踏み切るのも手だ。
 「価格破壊時代の価格破壊ペット。犬より、猫より、キューティーローチ」
「日本には、日本の気候に合った、日本のキューティーローチがいい」等々。
「商売万事、マーケティング次第」とアーシーさんは皮肉たっぷりに言っている。もちろん候補者がゴキブリだと言っているわけではない。宣伝に気をつけよう。
 
 
 それで、この際提案ですが、桃太郎ネットを守るため、みんなでキューティーローチプロジェクトを推進してみてはどうでしょうか。
 キューティーローチをみんなで宣伝して、売るのです。
 しかし、そうなると、ゴキブリほいほいの立場がむずかしくなるなあ。
 問題はほかにもあります。
 ペットということになれば、スリッパで叩かれた重傷のキューティーローチの治療には、某動物病院は対応できるのだろうか。
 仮に、首尾よく入院できたとして、治療中に怪我人? が逃走してしまった
場合、動物病院側は損害賠償に応じてくれるのだろうか。
 こっそりと、別の個体とすり替えられてしまった場合、そのことを証明する責任があるのは、患者の飼い主だと考えざるをえないのか。
 解決すべき課題は、まだまだ山積されています。
 う〜む。
 
 と、まあ、今日のところは、これくらいにしといてやろうか。(^.^)
 
 

 

 
辞世の句
 
「日本人には死ぬときに辞世の歌を詠まなきゃならないという風俗がある」
これも、「軽いつづら」ネタです。
 
それで思い出したことを書きます。
 
   友の背に 紫煙くゆらせ 夜の河
 
これは、癌で亡くなられた県立短期大学の学長さんが、ご自身のお葬式の会葬者に配るテレホンカードに書かれた句です。
これも、もちろん辞世の句といっていいでしょう。
 
いろいろと準備する時間(3カ月くらい?)があるから、死ぬなら癌がいいといっておられた先生の、いかにも先生らしい最期でした。
亡くなられる数日前にお見舞いにご自宅に伺ったとき、僕とふたりだけで話がしたいと、奥様や看護科の先生たちを人払いして……。
話の内容は書けませんが。
 
お通夜の時、倉敷短大の学長さんが、「なんで夜の河なんだ」と誰かに話しかけておられたから、僕はご存じのように不遜で無遠慮だから、「それは、好きなタバコをくゆらせながら三途の川を渡っていきます、という心境を僕らとの別れのあいさつ代わりに詠まれたのでは」と、解説してしまいました。
 
ま、みなさん、お医者様たちですから。
文学者じゃないから。
 
 
あーあ、今の職場、もう辞めたくなりました。
誰か、僕を買ってくれないかなあ。
本気ですぜ。
ただし、あと3年間は値段が高いですよ。
4年後からは、半値でいいけど。
こっちにも都合があるから。
ムッシュ購入希望者はメールください。(ΘιΘ)
ゲストはボードで。(^.^)
 
 
                          ムッシュ
 
 
「死ぬときに歌をつくらなきゃいけないという社会的脅迫のあった文化も、おそらく日本だけでしょうね」といわれた辞世の歌の続編をあと一つだけ。
 
  思い置く まぐろの刺身 はつがつを
     ふっくらぼぼに どぶろくの味  (C) 新門辰五郎(幕末の侠客)
 
人間くさくて、率直で、好きですねえ、こういうの。
ふっくらぼぼって、感じが出てますねえ。
 
僕ならどうかなあ。
こんな風な歌が詠める自信はないけど、沢山は作ってしまいそう。
沢山すぎて、テレホンカードには書ききれないかも。(ΘιΘ)
 
癌で死ねるとは限らないから、今のうちに用意しておこうかな。(^.^)
 
 

 

 
サーカス
 
碁会所に行く途中、ラジオで、布袋ともやすの「サーカス」を聞いた。
思わず、ハンドルを握ったまま、コサックダンスを踊りだしそうになった。
かんべんしてよぉ。(ΘιΘ)
 
 

 
 
ショパン・コンペティション
 
洪水のように目の前に現れては通り過ぎていく情報関連雑誌の片隅に、昨年のショパン・コンペティションに対する小さなエッセーが載っていました。
コーヒーブレイクな話題でついつい目を通していたら、意外や意外、不快感がますます増幅されてしまったので、折角だからみなさんにも「不愉快」のおすそ分けをしましょう。(^.^)
以下、( )の部分は引用箇所です。
 
(五年ごとに開かれるこの催しは、世界の四大コンペの一つだが、日本では最も人気があり、いわばピアニストのオリンピックといえる。参加資格は三十歳まで、若手ピアニストたちは青春を賭けてこのコンペをめざす。私たちも、このチャンスにたまたまワルシャワにい合わせた幸運を喜び、毎晩のように会場のフィルハーモニーに通いつめた。さすがに世界のトップピアニストたちの演奏は聞きごたえがあり、興奮と感動の毎日だった。
 しかし残念なことに、第一次、第二次と、予選が進むにつれて、だんだん胸のつかえが大きくなっていった。原因は審査である。(中略)
 違和感を感じていたのは私だけではなかったようだが、ロビーの隅でぶつぶつとつぶやかれていた聴衆の不満を表に出してしまったのが最終結果の発表だった。最も目立っていたロシア人のA・スルタノフが優勝を逃したからである。
彼のテクニックは抜群で、ピアノを弾いているというより、まるでその指揮でピアノが歌っているような感じを受けたことさえあった。ファンへのサービスも巧みで、予選ではワルツをちょっと崩して華麗に弾いてみたり、自由奔放な英雄ポロネーズで盛り上げてみたり、コンペというのに聴衆は総立ちになり、アンコールを求める拍手が鳴り止まなかった。思えばその頃から聴衆と審査員は衝突状態にあった。(中略)
 この事件の陰に隠れてしまったが、もっと残念だったのは、日本からの参加者をめぐって裏でカネが動いているという噂が流れたことだった。この噂は後に、『新潮45』十二月号に『ショパンコンペティション国辱狂騒曲』というタイトルの記事になった。全体の真偽はともかく、ある音楽ブローカーが、ワルシャワ留学中のピアニストたちに『君たちは自分を通していないから予選で落とされる』と公言し、その通りの結果になっていたことは私も知っていた。)
 
話はこの後も長々と続き、たとえば、ワルシャワ組のKというピアニストが予選で落ちたことについて、彼女の演奏を激賞したポーランドの音楽評論家が、「スターは消されていく」という表題の文章の中で「彼女の演奏を聴いた経験豊かなピアニストたちにはその原因がわからない」と激しく抗議し「彼女が予選で落ちたことは不正である」と断じていることも紹介しています。
 
(情報化社会といわれるが、こういう小さいけれど大事な記事は海を越えては伝わらない。まして、ピアニストたちの演奏が個々の観客に与えた感銘が広くネットワークを流れることはない。逆にコンペ○位入賞という情報は瞬時に世界を駆けめぐり、データベースに記録されて永久に残る。)
 
話は以上です。我が国では、およそ、ありとあらゆる分野で、そういうことが行われてきていると思っていましたが、それは、もしかしたら世界的な傾向なのでしょうか。
この国が、世界に不正を輸出しているのでなければいいのですが。
 
 
僕がかつて画壇の使い走りをしていたときも、フェアーでないものを感じていました。
知り合いの書家と、そういう意味での不正というか腐敗について話をしたとき、彼も否定はしませんでした。
別の、写真をやってる人に、「その点、写真はいいですよね。芸術としては新しいから、ほかの分野みたいな変な歴史や伝統がないぶん、フェアーでしょうねえ」というと、その人も、「いや、写真もあるんだよ」と。
 
振り返れば僕自身、誰も批判できない立場でもあります。
でも、僕は今はもう、そういう世界からオサラバしてるから。(^.^)
この国で本物の芸術をやろうと思ったら、それで飯を食おうとしたら駄目だと、僕はそう考えています。
そして、その考えは今でも間違ってなかったと思っているのです。
 
虚しいです。
 
 
                           ムッシュ
 
PS. ショパンコンクールの話を書いていて、ふと、BEADS さんのことを思い出しました。
  たまには存在を感じさせて欲しいです。
 
 
 
 
この頃……1996。
 
 

 
 
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