風の大地
農薬レタス
勉強しまっせ
飲む・打つ・買う
節分
マウスでクリック
毒をくらわば
フリーダム&風に吹かれて 97/12/20
仕事と遊び(※岡山西ネット)97/11/29
ボージョレ 97/11/29
ライフルマンに捧ぐ 97/11/06
テングストン(天狗石)リゾート 97/09/01
随筆家、江國滋氏のこと 97/08/30
フィクション「ミミズたちの旅立ち!」97/07/07
そよ風さん 97/07/03
スキゾパラノ 97/07/02
ムッシュ城 97/05/30
小説のアキレス腱 96/11/16
辞世の歌 96/10/20
 

 
風の大地
 
騙されては行けません。
僕も実はぞっこんですが、リリイ・マクガンは実在しません。
あんな女はいないのです。
女は馬鹿で、気が強くて……時に可愛い。
それだけです。
 
リリイ・マクガンは、いません。
きっぱり!
 
 

 

 
農薬レタス
 
碁に向かう短い時間、カーラジオが気になる話を流していました。
 
そのDJが、何やらスポーツキャンプみたいな企画に参加したときのこと。
地元の農家の皆さんに、新鮮な野菜を提供してもらえないかと考え、依頼したのだそうです。
もちろん、ただというのではありません。
会場の一角に採り立ての野菜たちを並べ、欲しい人がそれを取り、勝手にお金を何か箱に入れる方式。
今流行の、というか、よくありがちな、安易な「ふれあい」の演出です。
 
しかし、広大なレタス畑を前にして、見事に断られたそうです。
「あんなので本当にいいんですか」
「いいですよ。凄い新鮮なレタスじゃないですか」
「でも、あれ、全部農薬レタスですよ」
 
『農薬レタス』……!
恐ろしいほどにわかりやすい命名じゃありませんか。
 
それなら作らないで欲しい。
多少でもふれあいを持ち、親しくなった人には「食べちゃダメだ」と教えてあげるのに、見知らぬどこかの消費者に食べられるのは、罪の意識がないというのでしょうかね。
 
そういえば、思い出しましたよ。
笹が瀬川の鮒。
栄養価の高い腐敗した水の中で見事なまでに太り、みんなが、あんな魚は食べられないという共通の認識を持っているのに、漁をする舟がいて。
理由を聞いたら、京都や滋賀の方に出荷しているとのこと。
 
こういうのは、「未必の故意」といって、この場合は少なくとも傷害罪、もしもそれが原因で誰かが死んだら、殺人罪まで行く可能性があると思います。
 
政治家たちを腐敗させたのが商人たちだとしたら、彼らは今、農民たちまでも腐敗させつつあるのです。
 
 
なんか、野菜サラダ……。
魚も養殖だしなあ……。
 
桃太郎ネットで、安全な野菜を自給するプロジェクト、考えたいです。
 
 

 

 
勉強しまっせ
 
勉強しまっせ、引越のサカイ。
 
この、「勉強しまっせ」こそ、伝統的な由緒正しい日本語を荒廃した現代に受け継ぐ言葉といって過言でないのです。
 
もともと「勉強」は、つとめ、しいる。
出来ないことを無理をしてやっちまう。
そういう意味です。
「学ぶ」とか「学習する」とかいう意味は、言葉自体にはありません。
 
本当は値段を安くすることなど出来ない、それは無理な話なのだが、そこを無理矢理安くしてしまう。
この、いかにも大阪的な強引さ。
それこそが、由緒正しい「勉強」なのでした。
 
 

 

 
飲む・打つ・買う
 
「兄貴は頭が悪いから東大に行った」で有名な将棋の米長邦雄9段。
いま、毎日新聞に彼の連載があって、その中で紹介されている言葉が目を引いたので……。
 
「人には『飲む、打つ、買う』の道楽がついて回る。これは避けられない。このカベに当たった時が人間的な勝負だ」
 
これは、もうひとつ分かりにくいところがあります。
『飲む、打つ、買う』の道楽が常にカベになるとは思えないけど、常ではなくとも、それがカベになることは確かにあります。
そういう意味でしょうか。
 
「これを乗り切ってなお社会人として通用しなければ将棋界の第一人者の座は有り得ない。酸いも甘いも知って、なお家庭が平和的でなければならない」
 
「乗り切って」というのは、道楽をやめてまじめに立ち帰って生きるというのではなく、あくまでも道楽を全うしながら同時に……という意味なのでしょう。
左手で道楽を極めながら、右手で社会人として一流になることが出来るかどうかが、「人間的な勝負」だといっているのだと思います。
 
「酸いも甘いも知って、なお家庭が平和的でなければならない」
そうか。でも、なまやさしくないです。(^.^)
ねえ。>パパちん
う〜む、そうか。
 
「人には『飲む、打つ、買う』の道楽がついて回る。これは避けられない」
ここまでだけを覚えて、あとは忘れてしまおうか。(^.^)
 
 

 

 
節分
 
節分になぜ豆まきをするのか。
そもそも、節分というのは一年で4回あるんですよね。
高校生時代、受験で古文の勉強をしまくっていた頃読んだんです。
季節を分けるから節分。
現代の節分は立春の前夜のみですが。
 
でも、季節というよりは時の節目という感じで、**の節会(せちえ)というのは毎月あったと記憶しています。
なんでも、節が好きな国民。
 
豆は「魔滅」に通じるからというのは、どうみても、あとからのこじつけのような感じがします。
坊主の言い出しそうな話ですね。
この時期は冬の寒さに対抗するための体力というか栄養というか、そういうものを採る必要があって、そういう意味で、とかく不足しがちな蛋白質をとることを教えるための習慣だったという説もあります。
柊の枝に鰯の頭を刺した飾るという習慣は僕らの地方にはありませんでしたが、これも要するに鰯を食べて蛋白質を採らせようということでしょうか。
 
でも、ふと疑問に思いました。
なぜ豆まきなのか。
なぜ、まくのか。
 
食べ物をまいてしまうという文化は、この国には、ほかにはないでしょう。
もしかしたら貴族の習慣が、庶民にまで広がったのでしょうか。
 
ちなみに、今年は我が家は豆まきはしませんでした。
食卓の上に豆の袋は置いてありましたが、妻が何もいわないから、僕も黙ってた。
最近は、豆まきをする家は少なくなったと、テレビがいってました。
テレビのインタビューに、若者たちは「ひとり暮らしだから、やらない」とも。
そりゃあ、ひとり暮らしで豆まきは怖いものがありますよね。
 
よく神社で有名人を呼んで豆まきをしていますが、昔から、あれだけはやめて欲しいと思っていました。
神社のように法力の強いセクションが、自分だけ助かればよいという発想で鬼を市井に追い出してたら、貧しく弱い庶民はどうしたらよいのでしょう。(^.^)
貧乏神と鬼とを同士打ちさせる? とでも弁解するのでしょうか。
実は神社は鬼の存在など信じてなくて、豆まきという形をとって、貧しい庶民に施しをしていたのでしょうか。
 
そういえば、ほかに物をまく習慣はないといったけど、家を新築するとき、棟上げの時に餅を投げますね。
あれは「餅投げ」で、まくとはいわないけど。
似ています。
あれもしかし、金持ちの文化でしょう。
ま、いいかぁ。(^.^)
 
 

 

 
マウスでクリック
 
コンピュータジャーナリストの中尾英二氏が、今年はパソコンが誕生して満20年にあたると書いています。
1976 年にAppie-1が発表され、翌1977年から量産出荷が開始されているのだそうです。
そしていまや、大型家電量販店の年間販売額は、パソコンがテレビやエアコンを上回っているとのこと。
パソコンの初心者−−というより電子機器に全く縁のなかった中年の管理職や家庭の主婦や商店主−−までがパソコンを使うようになった、と。
「家庭の主婦や商店主」とはずいぶん乱暴な言い方ですが。
最近見かけないけどBEADSさんみたいな主婦もいれば、アイテムのパンチパーマのお兄さんみたいな商店主? もいるのに。
 
まあ、それはともかく。
その結果、画面に表示される<マウスでクリックしてください>というコメントを読んで、「マウスでディスプレーを叩いてみたが何も起こらなかった。パソコンが壊れているのではないか」といったような、それまでは考えられなかったような質問や苦情がメーカーに寄せられているらしい。
 
そんな話を読んでは、いま開発中のシステムのマニュアルを、ついつい、「どこそこをマウスでクリックして(マウスポインタ(マウスの矢印)をどこそこまで移動して、その状態でマウスの左ボタンを押して)ください……」とか、馬鹿丁寧に書き換えたりしている今日この頃なのです。
でもね、これはマニュアルですから、頭から順番に説明を書いていって、初めて使うときはともかく、その言葉を2回目に使うときはもうストレートに「クリック」とか「ダブルクリック」とかと書いてしまっています。
当然ですよね。
毎回くどくどしいことをやってたら、文章が読みづらくてしょうがないですから。
ただ、ふと、もしこのマニュアルが途中から読まれたら……。と、不安な気持ちになってしまうことがあるのも事実です。マウスで画面を叩くタイプは、マニュアルを途中から読みがちなんですよね。
そういうタイプは、頭が悪い癖に不思議と妙に自信家で、横着者で……。
しらん、しらん!
 
 

 

 
毒をくらわば
 
某庁の広報誌に、最近には珍しい気分のいいエッセイが載っていたので紹介しましょう。
スタイルが、若干引用のルールには反しますが、まあ、政府関係の広報誌だから勘弁してもらうことにして。(^.^)
 
 先日、ある会合に呼ばれた。行革って全然分からないから説明してほしいという。一時間半ほど話をして帰ろうとしたら、「休みの日にわざわざ。」と封筒を差し出された。謝金だという。「結構です。」「いいえ是非。」エレベーターの中でも押し付けあい、最後には郵送するというので「そうしたら送り返します。面倒なことをさせないでください。」と言って去った。
 何故役人に金を渡すのだろう。少なくとも管理職になれば超勤手当もない。
ということは無定量勤務、休日の仕事だって給料のうち。犬は毒殺されないように他人から与えられたものは食べないように調教する。役人だって、他人から金をもらうクセをつけるといつか毒まで飲まされてしまう。
 数年前、何故ゴルフをしないかと問われ、ゴルフをすると品性いやしくなるからと答えたことがある。今はそういうことはないだろうが、当時は、どこか団体の持っている法人会員権で安くゴルフができないかと公言している輩がいた。聞いていてヘドが出そうだった。……(以下略)
 
誤解のないように断っておきたいのですが、この筆者のようなケースでは、問題の謝金は、公務員法上、受け取って差し支えないとされている性質のものです。(行政実例で明文化されています。)
それにもかかわらず、受け取ることを潔しとしない筆者の姿勢には、読んでいて胸が熱くなった次第です。
合法的な講師謝礼は、役人たちのほぼ全員が受け取っていると思います。
 
 
しかし、まだこの国にも、こういう人がいるんですね。
「役人だって、他人から金をもらうクセをつけるといつか毒まで飲まされてしまう。」ですか。
勉強になりました。
 
 
                 平成の吉良上野の介 v(^^)
 

 

 
フリーダム&風に吹かれて
 
まず、とりあえずは、エレカシ。
平成の吉田拓郎といったけど、拓郎には若い頃からちょっと拗ねたとこがあるんですよね。
拗ねて、つっぱる。
エレファントカシマシの「風に吹かれて」には、そういうところがまったくなくて、清々しく知的な冒険心を感じます。
 
 
いろんなことが見えないからそれで恐れを知らず旅立とうとしているのではなく、本当はいまのままでなにもかも素晴らしいんだと知っているけど、それでもいくのだと歌っています。
 
僕らの時代では、「青年は広野をめざす」の世界ですよ。
それ以外は、旅立ちの歌は多いけれど、どれも、少しずつ、拗ねていたり、ちょっと暗かったり、重かったり。
浅川マキだったり、かまやつだったり。
六文銭の「出発(たびだち)の歌」もあったけど、あれよりエレカシの方が自然だし好感が持てます。
 
 
ただ、ひとつだけイケナイのは、「キー」があわないこと。
音域の上一杯で歌わないと感じが出ませんが、あのキーじゃ……。
女みたいな音域なんだ。
オクターブ下じゃ雰囲気が出ないし、上じゃ上の方が出ないし。
困るなあ。
 
 
さて、フリーダム。
あれ、PMさんも、佐野がちゃっかりいただいてる、みたいなことを書いていましたでしょ。
その時は僕もまったく同感でした。
あの歌の誕生のいきさつというか、制作の経過はテレビで逐一見ていたつもりだったから。
でもね、テープで繰り返し聴いているとね、こりゃあ僕らは一杯食わされたんじゃないかな、という気がしてきましたよ。
 
だって、あの歌詞は、凄い仕上がりになってますでしょう。
テレビで、サダやタカアキたちがてんでにちんけな詩を書いて、佐野がそれらのところどころをつまみ食いして並べたときは、はっきりいって、「こりゃあだめだ」と思いました。
だって、いきなりとってつけたように「最高!」で「フリーダム」でしょう。
 
でも、確かにあの時はそう思ったけど、通して聴いてみると、全体が巧みに繋がっていて、しかも、ゴツイ内容になっているんですよね。
そう思ってみると、前奏だって凝った作りになっているし……。
どうです、怪しいでしょう。
あれ、新曲宣伝のためのでっち上げだったと考えたら、いろいろと辻褄が合うように思えてきませんか。
 
練って、練って、練り上げられた「フリーダム」という曲が予め完成していて、自信作だけにどうしてもヒットさせたい。
それで、あの番組ですよ。
たぶん、佐野側とタカアキ側と、両方のおもわくと利害が一致したんでしょう。
 
一番の詩を前に置いて、3人にところどころの歌詞を覚えさせ、それを使って短いフレーズをでっち上げたんです。
少なくとも、あの歌は、「おちゃらけたコメディアンたちのほんの思いつきを並べて繋ぎ合わせてような歌ではない」と確信しています。
アルバムの、一番最初にぶつけるような完成度の高い自信作ですよ。
 
状況証拠ばかりですけど。
 
 

 

 
仕事と遊び
 
声優志望。
 
息子が大学を中退して声優になるといいだして、改めて周囲の若い人たちを冷静に見つめるようになりました。
それまでは、正直、自分のことばかり見ていて、若い人のスタイルにはさほど関心がなかったような気がします。
いまは「新人類」なんて言い方はしないのかもしれませんが、要はそんな、理解し合えない、世代のずれみたいなものを感じて。
どうせ彼らとはわかりあえないんだ、と。
 
で、息子の話です。
ネットの若い人は、とまどう僕に、「男なら夢を見ろ、と歌にもあるじゃないですか」といって、むしろ息子の自立を喜ぶべきだとでもいいたげですが、僕は、そうは思いません。
 
原始の昔、人々は力を合わせてマンモスを狩ることが仕事でした。
視力のいい奴はマンモスを探し、足の速い男は情報を伝達し、力のある連中はもしかしたら巨大な落とし穴を掘り、声の大きいのはおとりになったり或いは騒ぎ立ててマンモスを追い込み、自分の得意な部分を生かして協力してマンモスを捕まえていたのではないでしょうか。
 
仕事とは、そういうことだと思うのです。
みんな、得意なことを仕事にしたらいい。
そうして、それぞれが務めを果たして、そのあとではじめて憩う。
 
歌を作る奴。
それを歌うもの。
太鼓を叩く男。
そして踊る女たち。
しかし、それらは楽しみではあっても、仕事ではなかったはずです。
 
歌を歌ったり、踊って見せたりして、それだけでマンモスの肉を分けてもらうなんて。
男らしく自分も、マンモス狩りの危険を分担すべきでしょう。
 
遊び(趣味)が仕事に出来たら幸せか……。
その答は、僕のホームページでも少しふれています。
山が好きで山のガイドになった男の話として。
(桃太郎ネットでも、しっかり長々と書きましたよね)
ビートたけし氏はテレビで、「俺たちは仕事をしてる感覚はない、テレビで遊んでるんだ」といってましたが、僕の知人は、「仕事にした途端に妥協が始まるんだ」と、一刀両断に切り捨てます。
僕としては、一般論としてはそっちの(後者の)意見に荷担したい。
本当の意味で、遊びを遊びのまま仕事になんかできないはずです。
 
父親って、なんて無力なんだろうと思います。
 
 

 

 
ボージョレ
 
まあ多分僕の舌が雑巾なせいだろうけど、ボージョレヌーボーの美味しさは僕には理解できません。
だって、あの赤の、皮から種まで混入した酸っぱさと渋みは、古かろうが新しかろうが……。
 
自分の生まれた年の(古い)ワインを大切にするものだと元巨人軍のワイン党はいってましたが、出来立てのワインをもてはやすこととの矛盾を、どう考えたらいいんでしょうか。
おい、どっちが美味しいんだ、はっきりしてよ!
さあ、どうなんだよ、江川さ〜ん!
 
我が家のばやい、おかじま屋が売り切れで、トレンドで辛うじて入手したボージョレは既に妻と飲み干し、別に妻が生協で購入した別銘柄のボージョレが冷蔵庫で程良く冷えていますが、今夜手を付けるのかと思ったら、「あれはムッシュ王子が帰ってくるまで開けません」とのこと。
王子はお酒は好きではないし、取って置いても仕方がないと思うのだけれど、妻にとっては、大切な儀式の意味があるのでしょう。
 
そんなわけで、少佐さん、あれが格別美味しいとは思えませんけど。
自分で飲むならウィスキーかブランデーにしたら?
女性と素敵な緊張感の中でアルコールをたしなむなら、いつか紹介した、マンズワインの「にごり」のものですぜ、旦那。
 
 

 

 
ライフルマンに捧ぐ
 
かつて、「ライフルマン」というテレビ番組がありました。
 
♪ どこからやってきたのやら
  イカツイ顔に 優しい目
 
そんな、僕の心の中のライフルマンに似ている男がいました。
かれと今年の春に再会したとき、逞しかったからだが、半分の細さになっていました。
なのに、人々の幸せのために、地域に自分が生きた確かな足跡を残そうと、走り続けて、前のめりに倒れたのです。
僕の知っていた頃の男は、まるで、あの、英雄のライフルマンでした。
おい、いったいどうしたんだ。
そう思いました。
 
エリートコースを突っ走っていた男が、場末の事務所で僕と出会うなんてこと自体、信じられないことでした。
しかし、才能のある男が病に倒れるという図式は、なにもめずらしくはありません。
そうか。
それも人生なんだよ。
誰かに勝つことばかりが人生の目的じゃない。
数年前に、僕が僕自身に教えた言葉を、やつれた彼を目の前にして、反芻するように思い返していたものです。
 
そんな彼の死は、全く突然のことでした。
今日、彼のお葬式に参列しました。
精神障害者の施設の人たちからの、長い長い、いまだかつて聞いたこともないほど長い電報が読み上げられました。
あなたの送ってくれた沢山の本のおかげで、オアシス文庫ができました。
あなたが持ってきてくれたお芋をみんなで食べた、あのおいしさが忘れられません、と。
 
病に倒れ、我が社の本線からそれても、与えられた職場で、少しでも社会のためになりたい。
そういう男の生き様が、改めてはっきりと浮かび上がってきました。
イカツイ顔に似合わない、優しい心の男の死に、居ずまいを正して黙祷したいと思います。
 
 

 

 
テングストン(天狗石)リゾート
 
桃太郎の会員の人で、トンボを素手て捕まえられる人はいますか。
 
広島県と島根県との県境の、島根県側に旭町という町があります。
ここは、冬はスキー場。
結構上級者向けのコースもあって、当然のことながら、リフトは何コースもあります。
ここが、夏場はスイススタイルのリゾートとして、なかなかのものなのです。
麓の駐車場からロープウェイで急峻な山の斜面を登り、そのからさらにリフトで上へ上へ。
 
焼き肉食べ放題が得意な義弟の趣味? で、みんな(6人)で出かけたのです。
彼はサッカーの元県代表で、現在は指導者。
それはさておき、あたりは秋。
高原をわたる上品な風たち。 赤トンボが乱舞。
 
僕がトンボを手で捕まえる話をすると、意外にも、義弟まで「そうそうと」のってきました。
大体、いままでこの話をしたら、ほとんどの人が信用しないのに。
いざ、久しぶりに少年の心に戻って実戦開始となったら、圧倒的に彼の方が上手でした。
感心していたら、子供の頃、まわりの大人たちのやり方を見て覚えたのだとのこと。
僕の場合は本で学習して自分で悪戦苦闘、経験を積んで身につけた技。
かつての名ミッドフィールダーは、ゴツイ身体の割にテクニシャンだった。
ちゃっかり、彼の技を盗みましたけど。(^.^)
 
大人たちがひょいひょいと、手でトンボを捕まえるのを見ていた彼の息子も、捕虫網を捨てて素手に挑戦しはじめました。
息子は中学一年生。
息子も父親に似て、スポーツ万能。将来有望なサッカー選手。
 
しかし、なめてはいけません。
いうまでもなく、素人中学生に、そう簡単にはトンボは捕れません。
僕らが山肌を洗う涼しい風を楽しんでいるときも、彼は、「まむしに注意」の看板をものともしないで一心不乱。
惜しいシーンは何回もありましたが、惜しいとこまでいくのは簡単なのです。
でも、捕まえるのは容易でありません。
そして、何気なく振り返ったとき、彼が懲りもしないで、トンボに向かって指をグルグル回していたかと思うと、遂に首尾良く捕まえて。
その時、全く予期しない方向から拍手が湧いたのです。
 
山歩きをしていた、年配の夫婦らしい人たちでした。
照れる息子の顔は、やり遂げた満足感に溢れていました。
 
もともとは「天狗石スキー場」という名前で親しまれていた場所だったらしいけど、いまではその名も「Ten Good Stone」。
ネーミングもしゃれていると思いませんか。
 
 
PS. 広島の義母が、英国元皇太子妃事故死の号外が出ているシーンをテレビで見て、「どうして号外をださんといかんのんね」と疑問を呈していました。
  仕方ないから、「見たい人が多いんよ」と、僕。
 
 

 

 
随筆家、江國滋氏のこと
 
随筆家、江國滋氏の講演を聴いたことがあります。
 
岡山が生んだ名文家内田百間(正しくは門がまえの中の日が月です)をしのぶイベントのひとつだったと思います。
彼についてはほとんど知りませんでしたが、言葉を大切にする人という印象と、「最近の本屋は怖い。立ち入る勇気がない」という話が心に残っています。
まともな本は片隅に追いやられ、目をおおいたくなるようなのが店頭の目立つスペースに並べられていると嘆いておられました。
精神的にも、ダンディなというか、硬派な人柄とお見受けした記憶があります。
 
その江國氏が亡くなられたことを知りました。
晩年はいろんな有名人たちをモティーフにした俳句をライフワークにしておられたとのことで、いくつか作品をテレビで紹介していました。
たしか慶弔俳句といってましたから、対象にはそういう縛りをかけていたのでしょうか。
そんな作品の中で、今この瞬間まで覚えているものがひとつあります。
 
   夜店にもある フーテンのこころざし
 
もちろんこれは、渥美きよしさんのこと。
 
じつは昨夜は職場の「同期会」でした。
100人以上いるはずですが、集まったのは30人弱。
例によって毎年同じ会場の、食べ放題飲み放題の屋上ビアガーデンで、いい気分で酔いながら、ふと、連中を見ていると嫌になりました。
しゃべっている口元がおじいさんな奴。
頭が禿げたり、真っ白だったり。
 
定年ギリギリまで頑張ると、ぽっくり逝くぞという話になり、10年くらい早く、ゆとりを持って辞めたほうが、実際は長生きができるぞとか、しかし長生きするなら健康でないと意味がないなあとか勝手なことを言ってるから、つい、「定年一杯までがむしゃらに働いて、やめたら2、3年でぽっくりいったら、その方が家族からは感謝されるぞ。長生きしたらそれだけ長い期間周囲から汚がられて嫌われて……」と言ってしまいました。
こころにもないことを……。(^_^)
 
というわけで、つい最近も書いたような気がするフレーズをもう一度。
「みんな、どんどん死んでいきます」。
 
 

 

 
フィクション「ミミズたちの旅立ち!」
 
軟弱ミミズ「おい、なんか最近暑くないか」
ツッパリ「こんな腐れた暗い土の中にしがみついているからだめなんだよ」
軟弱「どうすりゃいいんだよ」
ツッパリ「決まってるだろうが。地上に出るんだよ」
インテリミミズ「だめだよ。この暑さは地上の暑さなんだ。生き抜くためには、もっと地中深くまで掘り進むしかないんだ。深いところは地上の暑さが届かないから、みんな、頑張って掘ろうよ」
ツッパリ「適当なことほざいてんじゃねーよ。苦労して穴掘って、その結果がこの暑さじゃないかよ。さあ、みんな、勇気を持って地上に行こうぜ」
軟弱「ツッパリさんのいうとおりだ。さあ、旅立とうよ」
ツッパリ「もっと楽に、もっと自由に行きようぜ、ベイビー」
軟弱「そうだ、そうだぁ」
インテリ「そうかなあ……」
 
そんな議論があったのかどうか知らないけど、我が家の庭にも、旭川の土手下のアスファルトの細い道にも、無数のひからびた、ミミズの行き倒れが転がっていました。
無残、とはこういうのをいうのでしょう。
ミミズたちよ、おまえになにが……。
合掌!
 
 
PS. ミミズにはルンブロキナーゼという酵素があって、これが強力に血栓を溶かします。
  秦の始皇帝? が不老長寿の薬として処女のおしっこを飲んだといいますが、人の尿には、ウロキナーゼという血栓溶解酵素が含まれているのです。
  でも、ウロキナーゼは血栓との親和性が低く、相当な量を飲む必要があります。
  林原の会長さんが、毎日ご自分の尿を飲んでおられるのは有名? な話ですよね。
  いや、知りませんが、そんな噂を、風の便りに聞いたような気がします。
  尿のウロキナーゼよりも親和性が高いのが納豆に含まれているナットウキナーゼ。
  ミミズに含まれているルンブロキナーゼは、そのナットウキナーゼよりも数倍強力な血栓溶解能力があるのです。
  ミミズは賢くないけど、偉い!!!
 
 

 

 
そよ風さん
 
以前にも一度さわりの部分を紹介したことのある僕のオリジナル曲。
 
  ♪ 僕は いかしたシャツの いつも楽しげな
    赤いリボン付けた あなたを見てばかり
 
    今日も いつもの喫茶店で トマトジュースを飲んでいる
    可愛いそよ風さんに 悲しい歌を聴かせてみたい……
 
 
もちろん歌のモデルとは別人ですが、こんな感じの人が職場にいます。
嘘っぽいほど明るいから、はじめは嫌みな女だと思っていましたが、あそこまで徹底されたら兜を脱ぐしかありません。
 
明るいのはいいことですよね。
たとえそれが、努力による意識的な笑顔でもね。
 
大学美術部部室の鍵の番号は、これも何度も書いた話題ですが、「9−苦しくとも 8−歯を見せて 2−にっこり笑おう」。
おいおい、ばらしちまつたけど、あの鍵、もう付け替えてるだろうな。>後輩部員諸君
 
 

 

 
スキゾパラノ
 
思えば僕らの世代は、何かにつけて凝るタイプが多く(そんなに多くはないか)、凝らないのは、生きていながらにして既に死んでいるタイプであり、そういう意味でパラノる世代といえるのです。(^_^)
 
この偏執狂世代が、無事に、とはいえないにしても、曲がりなりにも子供たちをどうにか育て上げ、いま再び、新しい自由を手にしつつあります。
 
パラノイアといえばスキゾフレニー。
(この言葉を教えてくれたのは、中国に派遣される前の某氏でしたか)
つい最近、仕事で警察に赴いたときに出会ったのは、放浪癖のある分裂病な婦人。
お金もないのに、風の吹くまま気の向くままに、京都から岡山、倉敷へ。
まさにスキゾる人生まっただ中。
今を、この瞬間をいきる。
ただ、それだけ。
 
基本的に、パラノイアはインテグレートするんですよね。
地道なところがあるわけです。
その分、重い感じ。
しかし、そんな世代が秘かに憧れるのが、スキゾる生活。
スキゾフレニーは意外と軽妙。
深刻さがなくて飄々としています。
老後はこれですぜ。
 
 

 

 
ムッシュ城
 
岡山城は、たかが築城400年。
我がムッシュ城は、僕が大学生だったころ、滋賀で600年祭が行われました。
 
城と言っても、まさにあの毛利元就の猿掛城と同じで、ただの館ですが。
崩れかけた石積みから想像しても、規模はそんなに巨大ではありません。
毛利元成に攻められそうになって帰順したらしく、そのあたりの資料が広島大学図書館に収蔵されています。
帰順する際、ムッシュ氏の家系図や氏素性についての資料を毛利氏に提出していたのです。
 
そういうわけですので、以後、僕のことは、「殿」と呼んでいただきたいと思います。v(^_^)
ご希望の方には、ムッシュ城観光ツアーを計画してもいいです。
と、まあ、冗談は別にして、誰しも自分の意志と力で生まれてきたわけではなく、それだけに、「ルーツ」には関心が湧きますよね。
 
中学生の時、同級生に、「自分とこはムッシュ城の家老だった」という友人がいて、ちょっと気分が良かったのを覚えています。
 
 

 

 
小説のアキレス腱
 
ふたりっこは例外として、僕はテレビドラマは、原則として、見ません。
ふたりっこを見たあとで、涙を拭きながら、ふと、思うことがあります。
小説を書く場合、あんなセリフ回しはできないなと。
例えば、僕など、よく、「これから仕事なんよ」とかいいますが、小説に書く場合は、男のセリフだったら「これから仕事なんだ」にせざるをえないのです。
 
三人とか四人とかのシーンだと、言葉遣いで発言者が誰だかわかるようにしておかないと。
いちいち、そこで誰々は「……」とかやってられませんから。
 
主役についてはともかく、脇役の場合、普通はセリフを置いただけで、それが誰の発言か自然に読み手に理解できるようにするためには、どうしてもセリフはパターン化されてしまいます。
 
これが、小説のアキレス腱なんだなと、ふたりっこを見ながら考えている今日このごろ。
 
 

 

 
辞世の歌
 
「日本人には死ぬときに辞世の歌を詠まなきゃならないという風俗がある」
これも、「軽いつづら」ネタです。
 
それで思い出したことを書きます。
 
   友の背に 紫煙くゆらせ 夜の河
 
これは、癌で亡くなられた県立短期大学の学長さんが、ご自身のお葬式の会葬者に配るテレホンカードに書かれた句です。
これも、もちろん辞世の句といっていいでしょう。
 
いろいろと準備する時間(3カ月くらい?)があるから、死ぬなら癌がいいといっておられた先生の、いかにも先生らしい最期でした。
亡くなられる数日前にお見舞いにご自宅に伺ったとき、僕とふたりだけで話がしたいと、奥様や看護科の先生たちを人払いして……。
話の内容は書けませんが。
 
お通夜の時、倉敷短大の学長さんが、「なんで夜の河なんだ」と誰かに話しかけておられたから、僕はご存じのように不遜で無遠慮だから、「それは、好きなタバコをくゆらせながら三途の川を渡っていきます、という心境を僕らとの別れのあいさつ代わりに詠まれたのでは」と、解説してしまいました。
 
ま、みなさん、お医者様たちですから。
文学者じゃないから。
 
 
あーあ、今の職場、もう辞めたくなりました。
誰か、僕を買ってくれないかなあ。
本気ですぜ。
ただし、あと3年間は値段が高いですよ。
4年後からは、半値でいいけど。
こっちにも都合があるから。
ムッシュ購入希望者はメールください。(^^)
ゲストの方はボードで。(^.^)
 
 

 
 
 
この頃……1997。
 
 

 
 
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