友とするなら 1998/04/23
動かない花になるな 転がる石になれ
これはもちろん、ローリングストーンズ由来の外つ国の諺? です。
同じ様な意味で、サイモンとガーファンクルは、エル・コンドル・パサで、
♪ 蝸牛になるよりはツバメになりたい と歌いました。
僕はもう何回も書いていますが、ご主人様に尻尾を振る犬がどうしても好きにな
れなくて、動物なら、飼い主とは飽くまでも対等で飄々と自由気ままにに生きて
いる感じが魅力の「ネコ」がお好みなのです。
もしも成れるなら犬よりは猫がいい。
犬は家来だけどネコは友人。
だから、もちろん、友とするならネコ型人間。
でもね、そんな話になると、話題はいつも定番。
つまらないことこのうえなし。
憧れるのは、大空を自由に飛び交う鳥か、地上の住人なら猫。
今日も今日とて、『僕はやっぱりネコだなあ』とやってたら、お馴染みのお腹ゆさゆさ、堂
々たる恰幅の歯科医師先生……。
『僕はねえ、息子と一緒に話をするんですよ。成れるなら、クラゲがいいなあと。
息子とふたりで、波間にふわふわ漂うクラゲを見てたらねえ……』
とろけそうな笑顔でそうおっしゃいます。
そんなの聞いたことがありませんよね。
掟破りですよ。(^‥^)
でも、うれしそうに話をしている先生の顔を見ていると、不思議とクラゲに見え
てくるんですよ。
そういわれてみたら、クラゲはどことなくジョージ秋山の「はぐれ雲」のイメー
ジと相通ずるものがあるようにも思えてきます。
ある意味ではクラゲは、海に浮かんだ雲といっていいでしょう。
う〜む、そうかぁ。
クラゲかぁ。
肉の名誉回復 1998/04/11
魚は体によくて、肉は体に悪いとテレビでいってるし、ほとんどの栄養士たちもそう習
い、オウム返しにそういう説を広めています。
かくいう僕も、一応は、単純にそう信じていました。
でもね、考えてみてください。
海のない大陸奥地の民族が不健康で、海洋民族ばかりが健康なのでしょうか。
島国の人々が、ただ単に、肉に関して無知なだけではないかという疑念がありました。
正しい肉の利用の仕方を知らないだけじゃないの?
長寿で知られたコーカサス地方の人々が、毎日毎日魚生活だとは考えられません。
その疑問の答えとなるかもしれない、ヒントのような話を聞いたので紹介します。
ネタの出処は、知り合いのおなかユサユサの歯科医師先生。(^.^)
話は、歯科医師の世界的な研究会みたいなのが日本で開催されたときのこと。
『いろんな国から来ていたのですが、そのなかにモンゴルの医師がいましてね』
ふむふむ。
『日本に派遣されるほどの人物ですから、彼の国ではエリートクラスなんでしょうが、
一緒に食事をしていたら、彼がいうんです』
ふむふむ。
『われわれは、例えば羊を食べるとき、決して肉の特定の部位だけを食べない、とね。つまり、
羊を食べるときは、頭からしっぽの先まで、羊のすべてを食べる。どこも残さない。そ
の動物すべてを食べることが、健康にいいんだ、というのですよ』
おお、そうだったんですか。
確かに僕らは、少なくとも体にいいといわれている青身の魚の場合、そのすべてを食べ
ることが多いですわ。
それに比して、牛や豚は、頭までは食べませんよね。
内臓にしても、普通は食べないし、血に至っては、まず絶対に利用しませんよね。
使ってもサラミソーセージくらいでしょうか。
と、これは僕が心の中で反芻したこと。
『彼によると、生き物の命をいただくわけですから、感謝して、そのすべてを食べなけ
ればならないのだそうですわ』
ふーむ。
そうだったんですよね。
魚が貴くて肉が卑しいはずがないと思っていましたよ。
同じような生き物なのに。
海に棲むか陸に棲むかだけの違いで。
これで謎が解けたとまではいかなくても、少しは僕なりに納得できた気分です。
極北に住むイヌイットも、そういえば、鯨のすべてを食べていたような気がするしね。
まあ、我が家は肉の日と魚の日が交代で訪れるから、とりあえずはどっちでもいいんだ
けど。
ムッシュ
PS.だからって、日本全国お肉屋さん協会の関係者の方、僕に何も送ってくれなくていいです。v(^o^)
ドラマ 1998/02/21
「だれでも求めるものは得られる。欲しいものは、山と同じで逃げていきはしない。
だが、よじ登らねばならない。一歩一歩よじ登ることだ」 アラン
そうはいうけど、いろんな山を登っていると、気が付くんですよね。
自分の手には負えない山もあることを。
誰だったか忘れましたが、今回の冬季オリンピックでメダルを獲得した選手の隠れた苦
労話がテレビで紹介されていました。
そのエピソードに触れて、「このメダルの陰には、私たちの知らないドラマがあったので
すねぇ」と水を向けたアナウンサーに対して、その選手がぽつりと言った言葉がとって
も印象的でした。
『ここに来ているものは、(メダルを取った自分だけじゃなくて)全員がそれぞれのドラ
マを持っているのです』。
よじ登ろうとして、夢を果たせなかった者たちの方にこそ、より深い感動を覚えます。
怨霊 1998/02/08
今回の長野オリンピックについて、外国でのメディアの取り上げられ方をテレビニュースで
流していましたが、「抑えた演出で霊的なものが表現されていた」などと、わりと好評のよう
でしたよ。
歓喜の歌の部分はハミングの方が良かったかもしれないと指揮者の小沢氏が語っていた
とか、選手宣誓役の荻原氏が英語とフランス語も用意し練習していたのに本番では日本
語だけしか許されなかったと語ったとか、某ニュースコメンテーターは土俵入りの時の
ステージが違和感があったとか相撲を屋外で取るものだと思われないか心配だとか。
まあ、いろいろ批判している人たちもいますが、意見が分かれるのは当然のことと受け
止めておきましょう。
どんな美味しい料理でも、細かい味付けについては、人それぞれの味覚や長年培われて
きた味の好みに左右されるわけですから。
あ、でも、もともと相撲は、本当は屋外で行われていたんですよね。
知らないで勝手なことを言ってる人もいて、その内容についてテレビ局もチェックでき
ないという現実は、平和の象徴であるオリンピックにまつわる出来事だと思えば、これ
も笑い話にしてしまいましょう。
誰かが下手に彼らを教育しようとしたら、すぐに『言論弾圧だぁ〜』とか騒がれるに決まって
ますから。
放置するしかしょうがありません。┐(^.^)┌
笑い話といえば、僕の個人的感想ですが、あの、聖火点灯のシーンで伊藤みどりさんが
着ていた衣装だけは、妙にけばけばしく感じて気になっていました。
全体の流れの中では、あそこだけが妙にド派手……。
まあ、象徴的なシーンですから、強調する必要があったのでしょうね。
ともあれ、古代大和の国の衣装みたいなイメージを出そうとしているのかなとは思いま
したが、それでもなにか違和感を感じて、そのことが心の片隅に引っかかっていたので
す。
でも、そんな些細なことは、いつのまにか忘れていました。
その衣装について、さっき伊藤みどりさん本人がテレビでいってましたよ。
(みどり)あれは、能の衣装をイメージして作られたんです。
(僕)なるほどなるほど。
(み)(基本的なコンセプトは)演出の浅利慶太さんが……云々。
(僕)なるほどなるほど。
(笑顔の女性アナウンサー)でもあれ、見たときわたし、一瞬、小林幸子さんが出てき
たのかと思いましたよ。
(み)ええ、あれは小林幸子さんの衣装をデザインされている方が……。
(僕)どっひゃ〜!
軽い気持ちでジョークを飛ばしたつもりだったんだろうけど、アナウンサーもびっくり
したみたい。
そのデザイナーの方は、あのときも直前まで裏で待機して着付けとかしてたとのこと。
恐るべし、小林幸子の怨霊!!!
自尊心 1998/02/06
『神経症的自尊心とは、巨大な自我イメージを周囲に認めてもらおうとすることである
と神経科医のカレン・ホルナイがいっている』と、早稲田大学教授で日本精神衛生学会
理事の加藤諦三氏が書いています。
青年が一人前の口をききたがるのも、まさに神経症的自尊心だと。
『自分が「21歳の大学生」や「17歳の高校生」であるという現実を忘れて、世の中
が分かったようなことを言いたがる。(ああ、若き日の吉田拓郎とか、僕のことですよ)
つまり、神経症的自尊心とは、「21歳の大学生」で社会人としての何の実績もないけれ
ど、社会人として優れた実績を上げた人と同じ様な口をききたがる心理である』と手厳
しい限りです。
そして、その結果、本当の自信を付ける機会がさらになくなってしまうのだと。
悪かった。
確かに、僕らもカレン・ホルナイ医師のおっしゃるとおりでしたよ。
でもね、突っ張ることをエネルギーに変えて、戦ってきたんです。
自分を不当にでっかく見せて、その虚像に少しでも近づこうと努力した。
そういうスタイルが男らしいと信じて、憧れていたのです。
その姿が魅力的だと思える人は、多分まだ心の若さを失っていなくて、
逆に、そういうことの愚かさが見えてしまう人は、心が年老いているということのようにも感じます。
そうなんですよね。
神経症的自尊心の人は、自分が他人より優れていると認めさせたいから常に葛藤の中に
いて、逆に、自分を普通の人間だと思っている人には、葛藤がないというけど、神経症
的であろうとなかろうと、自尊心を持たない人に、僕は魅力は感じません。
よっし、もうひと頑張りしようかな。
神経症的自尊心に関する幸福論的視点からの考察(笑) 1998/02/07
自分は他の者たちとは違う。
そういう気持ちがいつも根底にあるんですよね。
ところが、周りの人間たちは、そのイメージどおりに見てくれない。
そこに葛藤がある。
それが神経症的自尊心だというのです。
いわれてみれば、まさにそんな感じでしたよ。
僕だけの話じゃない。
20代が終わる頃までは、悪友たちはみんなそうでしたよ。
でも、いつのまにか、みんな看板に中身が追いついていったような気がします。
それもこれも、カレン・ホルナイ医師のいう神経症的自尊心を胸に抱いて生きてきたお
かげかもしれないじゃないですか。
20代半ばで妻と結婚したとき、小学校の校長先生をしていた義父は『周して比せず
和して同せず』という書をプレゼントしてくれました。
君子は周して比せず。
君子は和して同せず。
要するに、優れた人間は群れていてもどこかちがう。
みんなと仲良く和しているけれど、流されることはない。
そういうタイプは、少なくとも僕らの世代の場合は魅力的な男たちに見えました。
いや、僕らの世代だけに限りません。
今の若い人たちを見ていても同じです。
心の底から「自分は普通の人間です」といってしまったら、その人に『明日はない』気が
します。
しかし、カレン・ホルナイは、普通の人は現状に満足しているから、幸せで、葛藤がな
いんだと解説します。
若者の事件が様々に取りざたされているこの時期に、神経症的自尊心の問題を取り上げ
られた加藤諦三氏についても、不当な偏見のにおいを感じてしまいました。
全然納得できません。
僕にいわせたら、葛藤が育てる。
昔書いた、幸福論の焼き直しになりますね。
幸せだと思える人が幸せなのか、いつまでたっても現状に満足できないで、死ぬまで、
がむしゃらに走り続けるタイプが幸せなのか……。
いま遂に、その結論が出ました。(^.^)
まさにこの、僕らが憧れ続けた「後者」こそ、神経症的自尊心だったのです。(^o^)
テレビでおなじみの某女性ピアニストのことを「あんなレベルで満足している彼女は不
幸せな人だ」と呟いてたあの頑固な老教授も、実は血統書付きの神経症的自尊心。
僕が魅力を感じて、一緒にお酒を飲む相手は、およそ、もうほとんどがあぶない病気を
抱えている人たちばかりだつたんですね。
あ、看板に中身が追いついちゃったら、もう神経症的じゃなくなるんだ。
実力に裏打ちされた自尊心は、もう神経症的とはいえない……か。
いやいや、そういうタイプは、いつまでたっても満足できないはずなんです。
そうでなきゃ、魅力的じゃないもの。
ルーズの周辺 1998/05/24
>ああいうリズム感ある文章を書く時は、それこそ脇目も振らずにばーーっとブライン
>ドタイピングしてるってかんじですか?
原作は、紙に、肩が凝らないようにサインペンで書いたものです。
テンポのあるシーンだけでなく、ストーリーのうちで大切な部分は、何回もいじくり倒
して、頭のなかがぐちゃぐちゃになるまで推敲します。(^.^)
若いころは、何回も書き直したりするのは、男らしくないと思っていました。
ぱっと書いて、ぱっと出すべきだと。
大人になってから、ほとんどすべての小説家たちが、推敲に推敲を重ねていることを知
り、肩から無用な力が抜けました。
僕はしばしば、絵や曲と文章は根っこがおんなじだ、なんていってますが、文章と絵とが、決定的におんなじじゃない部分がここです。
絵はね、タッチというものがありますから、「気合いが充実したときに一気に描き上げる」
という技が必要なのです。
下手な人の線は、どじどじしています。
もちろん、そういう人は、線なんか引かないで、どじどじと、面だけ塗っていくという
手法もありますけど。
しかも、そういう下手な人の絵の方が、備前焼みたいな重厚さを感じてもらえたりして。
シャープな、切れ味のよい絵は、テクニック的には難しいにもかかわらず、イラスト的
な、軽い絵として扱われたりするのが現代という時代の特徴です。
ものを正確に描写しないで、中途半端なままの方が、味があると喜んでくれる人も多い
みたいだし。
よくいえば、いわゆる印象派的な絵。
お客さんは僕以上に気まぐれです。
それは基本的には観賞する側の権利ではありますが、簡単な方が大切にされる傾向とい
うのは、作り手としてはむなしいものがあります。
話がそれましたが、今回はそういうわけで、紙からすべて全部を打ち直しましたから面
倒だったし時間もかかったのです。
チョコチョコ手直ししながら打ち直した次第です。
僕の気まぐれに付き合ってくれてありがとうございます。>PMさん
ビデオ判定 1998/07/20
サッカーも野球も同じですが、アンパイアのミスジャッジほど、ゲームをつまらなくさせるものはありません。
ゲームの流れを止める場合は別として、そうでないときは、ぜひとも我が国の大相撲に習い、ビデオを判定の参考にして欲しいと思います。
サッカーのハンドリングなんか、もろにそうですよね。
今日、7/20の巨人ヤクルト、観客がボールに触ったか触らないかなど、監督の抗議の時間を短縮する意味でも、大きなメリットがあると思います。
誰が見ても触っていて、ボールの方向が変わってるのに、無能な審判がその事実をかたくなに否定するから、つまらない時間がむなしく過ぎていきます。
人間が判定するのだから間違ってもいいんだという考え方は、ゲームには審判が必要だということと根本的に矛盾しています。
「巨人戦は審判とも戦わねばならない」という野村監督の嘆きに同情します。
言葉の意味は忘れよう 1998/08/24
囲碁川柳に、『定石を 覚えて2目弱くなり』というのがあります。
囲碁の世界に、「宇宙流」という従来とはまったく新しい、革命的な価値観を導入したことで知られる武宮九段は、「定石は覚えたら早く忘れることが大切」と説きます。
好きな歌の場合、その中に使用されている言葉は気になるのでしょうか。
これはどういう意味なのか。
これとあれとは言葉としては似ているけれど、どうちがうのか。
そんなことを話題にしている若い人たちに出会うことがあります。
言葉は生きているのにね。
詩や歌の中の、ひとつの言葉を取り出して、その意味を辞書で引くという作業は、いうまでもなく無意味です。
言葉は、それが使われている風景の中でこそ、独自の意味を持つからです。
わかりにくければ、具体的に説明してもいい。
「あなたなんか大っ嫌い!」という言葉は、他のどの表現よりも、相手のことを深く愛しているという意味で使用されるシーンがあります。
言葉が生きているとは、そういうことでしょう。
色もそうです。
ピンクを代表とする暖色系は、暖かくワクワクしていて、逆に寒色系は、さみしく悲しい色だとされていますが、それは確かに部分的には正しいけれど、一枚の絵の中では、全く別の意味を持つことも少なくないのです。
僕らは、英語の長文を読むとき、中学生時代は、ひとつひとつ辞書を引いて、そこから導き出された言葉の意味を繋ぎ合わせ、ひとつの文章にしていました。
でも、高校生になると、それは見事に変わりましたよ。
辞書に書いてある細かな言葉の意味はひとまず横に置いておいて、とりあえず英文のまま何回も何回も読み込んでいって、なんとか全体の大意を把握し、あとは、まるで巨大なパズルでも解くようにして、文章全体の本当の意味にたどり着いたものでしょう。
そこでは、辞書に書いてある言葉の意味は、むしろ邪魔な場合すらありました。
詩や歌を味わうということは、ある意味では、そういうことではないでしょうか。
創作における言葉の宇宙とは、まさに、そういう世界だと思うのです。
「言葉を大切にする」ということは、言葉の意味にこだわることとは、まったく逆のことなんだということに、気付いて欲しいと思います。
究極の握手 1998/08/29
詳しい事情は書きたくないけど、実は少々紛らわしい職場なもんで、最近、エイズの心配をしている若者たちが迷い込んでくる機会が多くなったように思います。
一週間に5人くらい。
一体彼らは、自分がエイズの陽性だったらどうしようというのだろう。
おそらく、どうしていいかもわからないままに、検査だけ受けるのでしょう。
その結果、後悔した場合はどういう人生に向かうのでしょうか。
いや、その前に、彼らの後悔の中身は、自分の愚かな行為に対する後悔なのか、ただ最悪な相手に巡り会ったという自分の不運に対するものなのか。
僕らも「セックスは握手のようなもんだよ」と話してた時代があるけど、当時は僕らはそれはジョークのつもりでしたよ。
あ、でも、いつのまにか本気とジョークとの区別が付かなくなって、僕らもたくさんのミスを犯しましたね。
これを書きながら、少しずつ思いだしちゃいましたよ。
偉そうなことをいう資格はなかった。
資格はないんだけどね……。
そういえば先日も、若者のモラルのなさ、性の乱れを嘆く紳士に対して、
「彼らは自分の頭で考えて納得できるモラルや価値観の中で生きているんですよ。人を傷つけたり物を盗むのはいけないことだけど、自分の髪を染めたり人とは違う服装をすることは別に少しも悪くない。そういうことを規制する方がおかしいと考えているんです。その内容は個人個人でもちろん違っているんでしょうが、そういう意味では、セックスも握手の延長線上にあるんだと、そのくらいの感じでとらえている人だっているということなんだと思いますよ」
などと自説を展開してしまいました。
「“ルールだから守れ”じゃ、考えてみれば、確かに誰もついてきませんよ。何も疑問に思うことなく、先生の教えに従順に従ってきた僕らの時代の方が、ある意味ではどうかしていたんですよ。性の乱れを正すように説くなら、どうしてそれがいけないことなのか、ちゃんと、若い人たちが納得できるような説明をしなくちゃ」
古い教えの意味を考えることもなく、ただ丸飲みにしてきただけの単純で素直だった僕らの世代は、だから、若い人たちの疑問に対して、ほとんど丸腰なんです。
誰も答えることができないでいる。
この場合は、ジョークというよりは、相手紳士の『いわゆる常識』に、『時代の喝』を注入するという計算が働いたのですが。
でもね、実際問題として、だいさんとか黒猫さんみたいな感じの良い青年から、「エイズの検査を受けたいんですけど……」などといわれちゃあ、つい、三連ピアスの愛娘のことが頭をよぎりましたよ。(汗)
シングルになる 1998/08/31
ほとんど転載という見方も成立しそうで、厳密にいうとルール違反めいてますが、おもしろいから紹介しちゃいましょう。
まあ、この際、ホームページの紹介ということにして。(^o^)
囲碁のリンクを辿っていて出会った『中年Z』という紳士のHPです。
「たわいない日々の風景」というコーナーがあって、その中のひとつ。
《以下抜粋》
□ シングルになる
♪ターラララーラ、タラララララー。
ゴルフのコンペで、私が優勝した時の私が私に送る、祝福のファンファーレです。
嬉しいですね。
♪ターラララーラ、タラララララー。
アウト47、イン44のトータル91で優勝。
ハンディーは五年後に聞いて欲しい。
妻に「五年後までにシングルになる」と言ったら、何を勘違いしたか「お願いだから、
退職してからにして下さい」と言われた。
どうも妻は、私が一人になる、いわゆるシングルになるというシングルと、ゴルフのハンディーのシングルを勘違いしたらしい。
それにしても「退職してからにして下さい」とは、なかなかのブラックユーモアである。
《以上抜粋》
「なかなかのブラックユーモアである」と落ち着き払っておられるところが、ちょっと凄みを感じたりして。
笑えませんよね。
びびりますよ、普通は。
実は、つい、笑っちゃいましたが……。(ΘιΘ)
でも、こんな軽い話題はこれひとつかな。
涙なしには読めない話題もあります。
僕よりもだいぶ年長者か?
はたまた、僕くらいか?
興味のある方は、『中年Z』氏のページまで。
小咄(日本シリーズ) 1998/10/27
しかし、日本シリーズ最終戦は、さすがに見応えのあるゲームでしたよね。
大魔神にして、極度の緊張感に縛られたままの投球。
そして、あのレフトへの飛球です。
さらにはフィルダースチョイス。
1点入って、なお、ワンナウト1、2塁。
正直、わたし、ちから、入りました。 (ΘιΘ)
一応それは置いといて、一心不乱に仕事をしていて、責任とか持ち場とかいう話になり、ぼくが、「組織には守備範囲というものがあって、これは厳然と決まっていますから、レフトに上がったボールをライトが取りに行くような真似はできませんよ」というような意味のことを発言したと思ってください。
そうしたら、あるおじさんが淡々と、かつ、感慨深げに……
『しかし、ああいうことがあるんですなあ』
「えっ、なんですか」
『レフトのに、ライトに入ったじゃいうて……』
「…………?!」
『いやいや、失礼しました』
僕の職場には、こんなおじさんがいます。
まいったなあ。
ムッシュ
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