普通に歩く練習が先なんだよ  2007/12/12
 
 
 放送局の番組モニターをしてきました。渡り鳥のように各局を。現在はNHK(全国放送分)です。
 おかげでここ数年、テレビを観る時間数が増えました。
 スタッフの意気込みがリアルタイムで伝わってくるような番組もあれば、さらりと流して作ったなと思えてしまう番組もあって、そのことと、成功と失敗とが必ずしも相関関係になかったりして、面白いものだなと思いながら務めを果たしています。
 
 そんな中、ドキュメンタリー番組などだと、多くの場合、ナレーションが入ります。担当するのはアナウンサーだったり役者さんだったり。
 気になったのは、アナウンサーの場合、多くの人が工夫しようとしていること。状況に応じて、語り口を変化させてるんです。
「その時歴史が動いた」の松平アナの場合は、あそこまで完成されてしまうと、あれはあれとしてもう別格、芸として認めざるを得ませんが、みんなが松平アナになろうとしているのかと疑ってしまいます。「努力のあと」というか「工夫」が見えて、それが気になって気になって仕方がありません。何か、勘違いしてる。
 モニターをやってて、どうしてもその点について触れる回数が多くなってしまいます。ああ…僕はまた同じことを指摘してると、自分でも気付きます。
 
 
 
 北野武氏が、赤塚不二夫氏との対談で映画のことを話しています。
『だから下手な役者はなにをさせればいいかっていうと、全力で走らせるか、土砂降りの雨の中を女優に襦袢着せて乳放り出させて泣いてもらう。そういうのってよく体当たりの演技って言われるけど、あんなもん演技じゃない。一番難しいのは普通に歩くことなんだけど、役者を歩かせて「手の振りがちょっと小さいんですけど」って言うと歩けなくなったりするんだよね』
 
 
 
 つまり、そういうこと。
 まず、普通に歩く練習をしないと。
 ナレーションをしてる自分を、もう1人の自分がどこからかきちんと冷静に観察できているようなレベルにならないと。そうでないと、とてもプロとはいえない。
 このあたりの理論は、案外みなさん知ってたりします。研修などで、先輩アナから教えられるんだと思うんです。だから知識としては覚えていて、問われたら答えられる。でも、実践が伴ってないわけでしょう。それじゃ、知らないのと同じになりませんか。
 あ、棒読みでいいとは言ってませんよ。表情はないとね。でも、普通に歩けば、その状況にふさわしい表情というものは自然に付いてくるものですから。
 
 多分、あと3カ月とちょっとの任期末まで、何回かはこの点に触れてしまうような気がしますが、言って聞かせて理解できない相手なら、もう、触れるの、やめにしようかなとも思ってたりして。
   
 

 
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