阿佐田哲也さんの美学  2007/10/07
 
 
 本名は色川武大さん、直木賞作家。
 世の中、麻雀の強い人は多いと思います。
 特に、僕らの時代には、若い人たちの中には、いろんなタイプの強豪がいたように思います。
 
 ともあれ、阿佐田哲也さんは、テレビで見る限り、負け続けておられました。週刊誌の対局でも。
 なかなか勝てない阿佐田さんでしたが、その打ちぶりは迫力があり、上質のウィスキーのような? コクがありました。
 
 弟子と称される通称ブーさんが阿佐田さんについて、なぜ勝てないんだろうと、(彼は編集者だったので)ある対局の際に後ろに回って見ていたら、相手はみんな普通の人たちなのに、阿佐田さんだけは、凄く凝った打ち回しをしておられたとのこと。
 僕も11PMで何回か手の内を拝見しましたが、まったくそのとおりでした。芸を見せるのが自分の仕事とばかりに。
 麻雀に限らず、囲碁の棋士にも、そういうタイプの人がおられます。
 ただ勝つだけなら意味がない。ただ強いだけではプロとはいえない。そういう考え方を持った人たちです。
 いわく大竹美学、いわく武宮宇宙流。
 いわく、捨石の梶原。
 
 
 そういう世界と比べるのは恥ずかしいのですが、僕らの場合は、ただ勝つためだけにですが、それでも独特の世界がありました。
 たとえば、手に、2・4・5・6・7・8、とあるとき、2を捨てたら待ちは3・6・9の3つになります。だから、僕も、誰だって、普通はそうします。でも、純粋にレベルが高いメンバーだけで戦うときには、あえて8を捨てて、3だけの待ちにしないと勝てない状況というのがありました。同じ意味のようでも、捨てるのは8ではなくて5であるべき状況というものがあるんです。
 
 2を切れば、自分が必要牌を持ってくる確率は高くなります。自分が持ってきて、それで勝てるメンバーなら、そうしたらいいんです。
 でも、それでは相手はかすり傷程度でしょう。対戦相手からダイレクトに取らないと、強いダメージは与えられません。パンチが入ったことにはなりません。5を切れば、自分では上がりにくくなるけど、一方で、3を引きずり出しやすくなるんです。そういう状況というものがある。敵は5の枚数を数えますから。
 逆に、捨てた5が異様に「光る」意味もあります。光れば、こちらの意図までも読まれるおそれがある。
 それらすべてを、見きわめ、決断しないといけない。
 
 常識的な話をなにをもったいぶって書いてるんだとお怒りの向きもあるでしょう。元々、その程度の低いレベルの話をしてるわけで、笑って読み過ぎてください。どうぞ、こんなところに立ち止まらないで。
 
 
 およそ「勝負事の基本は防御」ということが理解できていない人たちを相手に、そういう打ち回しをしていたら、これは一人相撲になってしまう。相手3人がノーガードの殴り合いをしている、そんな状況のときには、変に凝らないで、網を広げた打ち方が勝ちやすいに決まっています。そんなことは、少し麻雀をやったことがある人なら誰だったわかること。
 でも、阿佐田哲也さんは、氏の美意識が、それを許さなかったんだと思います。それと、若い頃、坊や哲ならぬ坊や武? と呼ばれて強敵たちと打ちまわしておられたときに染み付いた打ち方が、捨てられなかったのでしょうか。
 
 
 ウィキペディアには、井上志摩夫というペンネームも紹介してありますが、時代小説では、御仲十(みなかはりつけ)という名前も使われてたとのこと。どちらも時代小説用らしいけど、いずれも僕は読んだことがありません。
 
 
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 ちょっと昔、こんなことを書いてました。
 東一局五十二本場。
 
 ルールは青天井。
 相手は、もう、何個も役満の重なった手しか作ろうとしないし、そういう手にならないと上がりません。若者が負けない限りゲームは続きます。つまり、負けないと終わらないんです。
 おそろしいことです。
 
 

 
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