慎重ということは、どういうことなんだろうかと思います。 言葉を好きと嫌いのふたつに無理に分ければ、多分、好きの方には入らない。どうしても、優柔不断というか、愚図なイメージが付きまといます。 どうせ短い、一度しかない人生。男なら恐れるな。易きに流れず、悔いのないよう、狭き門より入れ。見る前に跳べ。 そんな意味の言葉を、ノートの隅に書きとめる高校生でしたから。 なのに、歩いてきた道を振り返れば、どうみても慎重でしたよ。 そして、そんな、意気地なくも冒険を避けようとしてばかりの自分のことは、多分、心ひそかに低く見ていた節があります。 絵は逆に、僕が描くのは具象ではありましたが、まるで印象派のように、自由な世界に向かっていたような気がします。そこは慎重さ無用の解放区。 虚の世界で、まるで反動のように鬱憤を晴らしていたのでしょうか。 囲碁に手を染め、実力を付けるに連れ、少しわかってきたことがあります。そのことは、麻雀にも共通していました。それは、防御が基本だということです。 運が介在する麻雀も、勝敗を分けるものは、必ずしも運ではありません。 勝負事の命運を分けるものは、ある意味で、慎重さでした。 すべてが運まかせに思える丁半博打でさえ、強い人は出目の流れを読みます。 あの「あしたのジョー」で丹下段平が最も苦労したのが、ジョーに防御を教えることでもありました。強打のボクサーは、攻撃こそ最大の防御とばかりに、守りを軽視しがちだからです。でも、それでは世界は取れません。そのため丹下段平は、ジョーに防御の大切さを教えるために、青山君を利用しましたよね。リング上で、彼にジョーを打ちのめさせました。防御の出来ている青山君には、ジョーのパンチは当たりません。逆にジョーは、青山君のなまくらパンチを、雨あられのように浴びてしまいます。 誤解を恐れて、あえて慎重な表現を用いるとすれば、つまり、大切なのは「慎重さと大胆さとのバランス」だと思うのです。 そこに思い至って改めて振り返れば、それまで慎重に思えていた自分が、慎重さにおいていかに不十分だったかに気付きます。 絵が、少しずつ落ち着いたものに変わり、仕事振りも変化したかもしれません。 囲碁も、さらに少し強くなった気がします。 時代を生き抜くためのキーワードは、慎重。 でもね、まだ、心のどこかで、そんな慎重な自分のことが、実は、好きになれないんだよね。 |