「永遠の少年」さんの掲示板で、浅川マキのライブに行ったというコメントを目にして懐かしい気持ちになりました。彼女、まだ活動されてたんですね。 僕らの世代ですら、彼女のことを知っている者は多くはないと思います。普通の人たちとは接点の少ない歌手だった印象があります。僕が彼女のことを知ったのは、当時アングラと呼ばれていた人たちの歌が入った8トラックテープの中。初めてその歌を聴いたときは、宝物を見つけたような気がしたものです。それから、音楽雑誌で彼女の記事や楽譜を何回か目にしましたが、いつのまにか消えていった人。よく「カリスマ」といいますが、その言葉が最もふさわしい消え方でもありました。(と思ってたら、実はしっかりと活動を続けておられて、毎年のようにアルバムも出されていたんですね。今回オフィシャルページを拝見するまで知りませんでした。失礼しました。そういえば、アンダーグラウンドこそが一貫した彼女のスタイルでした) 気だるく切ない歌詞、どうしようもなく息詰まった状況を、さらりと歌う人でした。 イメージ的にはリリイに似ていると感じていました。あえて違うところを探すとしたら、リリイは音楽的に洗練された「軽さ」に包まれていると感じるのに対し、浅川マキは重い。最近流行の「癒し」というよりは、むしろ逆療法的に自分を追い込む感じで、そういう意味でずいぶん影響を受けたと思います。(いうまでもなく、すべては70年代に限定した話ですけど) 港町でふしだらな生活を続ける女「かもめ」を歌っても、彼女はどこかストイックで、僕はひそかに、女性の高倉健みたいだなあと思っていました。「夜が明けたら」では、浮き世の未練を断ち切り“今夜でこの町ともさよならね”と、ひとり列車に乗って旅立つわけですから。“わりといい町だったけどね”とうそぶきながら。 最近は、敗者の姿が気になることが多くなりました。敗者の姿に胸を打たれます。その背景というか根底には、努力の多さと勝敗とが必ずしも相関関係にないという思いがあります。一体どっちが人間として優れているのか。勝ったことそれ自体の意味を、真摯に問い直している勝者が何人いるのだろうか、と。 今日の勝者が、この次ぎに負けたその日にこそ、その人の真価が問われるのでしょう。 敗れて気持ちをストレートに出して泣いている若い人も感動的だけど、僕が惹かれるのは、涙をこらえて、静かに立ち去る大人の姿です。ゴールドメダルを手にして涙を流している人よりも、物言わず試合場をあとにする人間の方が、時には胸に迫るものがあります。 「君はゲームには負けたかもしれないが、人間としては負けてない」 またひとつ悔しい敗戦を知った分だけ、勝者より優れているじゃないかと、そう思うのです。 考えてみると、孤独な敗者の姿というのは、あるいは浅川マキの世界と似ているのかも知れません。 |