弁当を持ちたくなかったんだ    2001/12/05
 
 
 いまはもういい歳ですから、別に職場に弁当など持っていくことはありませんが、結婚したばかりのころや子供に弁当が必要だったころは、僕も弁当を持って通勤していた時期がありました。
 実は先日、事務所で、つい何気なく、なんか弁当を持つのは恥ずかしくないかというと、まわりの若い人たちから意外な顔をされてしまいました。別に恥ずかしくなんかないと。
 職場の若い人たち、なかなか弁当派が多いんです。しかも、話題が弁当のおかずの話に移ると、みんな平然と、前の晩のおかずの残りだと。
 信じられません。
 僕は子供のころからずっと、弁当のおかずはちゃんとした弁当用に作ったおかずでしたよ。具体的に、メニューの注文もしました。それでも、弁当を持って人前に出るのは恥ずかしかったものです。
 だって、小林旭も石原裕次郎も、宍戸錠も、スクリーンの中では誰も弁当なんか持っていません。男は弁当など持たないものなのです。
 
 考えてみたら、その昔、『小市民』という言葉がありました。
 僕らが精神的に突っ張っていたころは、『青年は荒野をめざす』時代だったはずなのに、その一方で、街には『マイホーム』とか『小市民』とかいう言葉があふれていました。
 弁当は、その象徴でした。
 
 僕らは、昼間は『青年は荒野をめざす』時代の中にいましたが、夜、親たちは、子供のことを少しでも良い高校から少しでも良い大学に入れ、少しでも良い会社に就職させたいと秘かに話し合っていた節があります。やがては丘の上の団地にみんな同じ形のマイホームを建てて、その家には優しい妻と可愛いふたりの子供(孫)たちがいて……と、そんな願いを生きる支えにしていることが、手に取るように僕らにはわかってもいました。
 大学受験を前にして、僕らは、自分たちが本当に進みたい学部と、親たちが望んでいる学部との間でちょっとした悩みを抱えていました。
 自分たちこそ考え深い特別な人種だと確信していた若き自信家たちは、ある日会議を開き、自分たちの悩みについて協議しました。そしてその結果、ひとつの仮の結論に達したのです。
 それは、やりたいことは、どこの学部に行こうと、やれる。そういうものでした。美大に行かなくても絵は描ける。文学部哲学科に行かなくても、哲学は出来るし小説も詩も書ける。芸術学部に行かなくても、芝居はやれる。学部は関係ない。
 ここはひとつ、親孝行をしておこうや。
 
 そういうわけで、みんな法学部や理学部に行きました。
 大学は別々でしたから、少しずつ彼らとの交流は希薄になり、時折入ってくる情報といえば、「○○が大学を中退して姿を消した」みたいな話ばかり。
 消えた男は、昔の夢に立ち返って荒野をめざしたのかといえばそうではなく、酒に溺れ水商売の女性とどうにかなってしまったといった極めて世俗的な話だったりして、ヤツも堕落したなあと、こっちとしてもそんな軽率な感想をもらす程度の反応しかできませんでした。実はその時、本当に堕落していたのはどっちだったのか、深く考えることもなく。
 川端康成は、小説家志望の朝日新聞の記者を、『野の蛇たれ』と叱りました。ぬくぬくと給料を得ながらでは、良い小説は書けないと。
 生きるためとはいえ、羊の皮をかぶってあまりにも長く羊の群れに紛れ込んでいると、いつのまにか、自分が狼なのか羊なのかわからなくなってしまうことって、あると思うのです。
 弁当を持ちたくなかったのは、そういう自分を真正面から見つめたくないからだったのかも知れません。

 
 

 
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