別人になりきるということは、わかった風にクレバーに別人を演じることではなく、ずばり、自分なりに別人を理解することじゃないかなと思っています。
必要に迫られて、あるときは仕事で、またあるときは散々飲まされたあげくに意識朦朧としたなかで拝み倒されて、別人になることを引き受けましたよ。
でもね、僕なりに相手の本質を理解してないと、それは出来ない話だと思っています。もしかしたら勝手な思い込みだったかもしれませんが、僕としては、理解してないと、無理だと、そう思っていましたよ。
以下は、別人になりきった一例です。20数年前の仕業ですけど。
先日、久しぶりに古い友人が訪ねてきた。彼とは長年共に白球を追った仲である。さっそく酒を酌み交わしながら、野球の思い出に花を咲かせたが、その内に「それにしてもお互いよく飲んだものだ」という話になった。
その頃は、野球の後は決まって祝勝会とか反省会とか称して(結局理由はどうでもよかった)、みんな若かったせいもあり、勢いにまかせて随分無茶な飲み方もしていた。その分失敗談も多く、今では楽しい思い出になっている。
当時は、酒といえば屋台と相場が決まっていたし、そこはたいていむくつけき男たちのたまり場であり、飲むほどに酔うほどに、歌の文句ではないが、夢があり、涙があったように記憶している。
「酒には人生がある」などというといささかキザだが、酒を通して、私はこれまで様々な人生をかいま見てきたように思う。
それらの中には、心に鮮烈に焼き付いて忘れられないものもいくつかあり、そうした経験の積み重ねが、ある意味では今の私をつくり、支えてきてくれたのではないかという気がしている。
そういう意味では、どうも私は酒の味そのものを楽しむというよりは、人とのふれあいというか、もっぱら酒の周辺のあじわいを楽しんできたように思う。
最近はというと、気のおけない炉端焼きの店などで若い人たちと取りとめもないおしゃべりをしていることが多い。世代間の隔たりを酒が微妙に埋めてくれるようで、また楽しいものである。
友を送り、そのうしろ姿に、奴も年を取ったなと思えば、それはそれでまた複雑な気分ではあった。
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訪ねて来た友にお酒を出す演出にしたのは、これがお正月の新聞のコラムだったからです。文字数が指定されていたから、なんとなく短くてもの足りないかな。
この人は同じ職場のボスで、そこで僕は草野球のチームに参加していましたが、彼は若いころは凄いプレーヤーだったと聞いていました。あと、リアルタイムでしばしば小料理屋などに連れて行ってもらってました。
このボスの当時の年齢を、もう現在の僕は越えているかもしれません。
いま読み返すと、もしかしたら、20数年後の僕自身の思いを、この人の名を借りて、時空を越えて表現したのかもしれないとさえ思えて、不思議な気がします。
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