スタンド スティル    2004/08/01
 
 
 小椋佳の作詞、星勝の作曲になる「スタンド スティル」という曲があります。
 小椋佳はこの3番で、
  ♪ まるででっちあげのおおごとの
    かたづいたしゅくえんのなかで わらいあうじかん
    トロピカルフィッシュのあわおとの
    たえまないくりかえしのなかで いきのこるじかん
    きみといられたことを
    だれにかんしゃしようか
と歌っています。
 この曲を初めて聴いたのは、銀行員だった小椋佳が、会社の許しを得て、NHKテレビでコンサートを演ったときだったと記憶しています。小椋佳氏が、この歌の演奏終了直後に星勝さんとステージ上で手と手を合わせ、やったぜのポーズをしたのを僕は見逃しませんでした。
 僕には、この歌詞の情景が容易に目に浮かびます。アルバムでいえば企画の組み立てからスタッフの構成、録音を修了したときの一段落ですよね。コンサートでいうなら、企画検討を何回も繰り返し、議論し、遂に成し遂げたあとの疲れと喜びの入り混じった時間。何かを創作する場合、取り組む姿勢は一様ではないでしょうが、いずれにしても、作品というものは虚構です。緻密に計算して、組み立てていくものです。でっちあげといえばでっちあげの世界ですが、そこにまた、苦労と喜びの海があるわけです。それが創作ですから。
 
 日本語のフォークソングは、僕などが高校生や大学生だったころは、多くが教訓でした。高田渡や加川良、中川五郎は、人々に道を説き、愚かな若者たちを教え導こうとして歌っていました。
 吉田拓郎も初期には、“古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう”と歌うイメージの歌などを引っさげ、いっぱしの伝道師でしたよ。だけど、そうしたお説教じみた歌は、売れません。一部の狂信的なファンを除いては、敬遠される傾向なきにしもあらずというか、僕のまわりでは知っているやつの方が少なかった状態でした。フォークがいわゆる一般大衆に受け入れられるようになったのは、吉田拓郎の「旅の宿」や井上陽水の「心もよう」、かぐや姫の「神田川」などからではなかったでしょうか。やがて、教訓としてのフォークソングは敬遠され、ストーリーや情景を歌うようになりました。フォークのドラマ化現象が起こったというわけです。かくして無数のドラマが語られ、ヒットを続けました。売れましたとも。売れるなら、業界も飛びつきますし。小椋佳もその代表格でした。
 そして、そんな楽屋の裏側を垣間見せてくれたこのスタンドスティルが、僕にはとても新鮮に思われ、創作を趣味としている者として心に響きました。
 
 もちろん、歌や詩や小説に描かれている世界は、ノンフィクションを下書きにしているものもあるでしょうし、嘘っぱちの世界もあるでしょう。水戸黄門は本当はほとんど水戸から出ていないし、ドラえもんのタケコプターやどこでもドアは実在しません。「白秋」でもカモメのジョナサンの話を書いたばかりですが。
 今日もハリーポッターを家族で観に行って、いま帰ってきたばかりですが、映画館は大盛況です。荒唐無稽なストーリーに、長蛇の列です。世界の映画界も、大衆が何を求めているかを敏感に嗅ぎ取り、求めるものを制作しているということでしょう。
 
 僕らは多分お疲れ気味で、多くの人は癒しを求めており、お酒を飲んでみたり、高原や海に車を走らせてみたり、映画の世界に浸ったり。やはり、人間なんて、弱いし、ちっぽけな存在ですから。
 今日映画の時間調整で足を踏み入れた本屋でたまたま手にしたのは、五木寛之の大河の一滴でした。その最初のページが、心が萎える話でした。あの五木寛之氏でさえ、全身が虚脱感に包まれ、どうしようもなく心が萎えたと書いています。その状態から抜け出したいといろいろ試みたが、有効だったものは何もなく、ただ時間をやり過ごすしかなかったと。今年の春、生まれて初めて心が萎えることを経験した僕としては、同志を見つけたようで、無性にうれしく思いました。
 そういう意味では、いまという時代は、僕などが若かったころとは比べものにならないほどシビアで困難な時代だと思っていますから、若い人たちにあまり多くは求めません。求めませんが、もしもいわせてもらえるなら、僕らが若いころは、安物のギター片手に、拓郎のイメージの歌を歌っていたんだよといいたい気分はあります。
  ♪ 古い船には新しい水夫が 乗り込んでいくだろう
     古い船をいま動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
 そう心から信じて、日本という古い船に、僕らは若い水夫として乗り込んでいく気構えだけは持っていたつもりです。
 
 僕はいま、槙原敬之の「世界に一つだけの花」を怖れています。
 若者たちに、安易に、楽なままでいいんだと呼びかけているように聞こえるからです。オンリーワンというのは言葉の麻薬です。ナンバーワンに似ていて耳障りはいいし、ナンバーワンと並べて歌っているけど、オンリーワンという言葉自体には何の意味もありません。個人というあたりまえのことを言い換えただけですから。ナンバーワンを目指して汗を流している人たちのことを、槙原氏はどう思っているのか、そこをぜひ聞いてみたいものです。
 繰り返しますが、ドラえもんのタケコプターもどこでもドアも実在しません。素材がノンフィクションであっても、ドラマはドラマでしかありません。それはでっちあげの虚構であったりひとつの実例であったりはしても、当然のことながら、普遍的な真理じゃない。
 オンリーワンというのは言葉の麻薬です。
 辛抱する木にこそ花が咲くのです。
   
 
 

 
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