俳句大好き     2000/08/27
 
 
ちゃんとした俳句は出来ませんし、特に興味を持っていたわけでもなかったのです。
なにしろ、俳句は言葉数が少ないし、不自由ですから。
僕は、制約を好みませんから。
そうなんですよね。些細なことでも、制約があるとどうしても好きになれない。
 
では、詩はどうだったのでしょうか。
詩も、漢詩などの影響からか、以前は、淡々とした感じの五七調とか、勢いのある七五調とかも少なくなくて、規則性のない詩は、散文詩とか自由詩とか呼ばれていました。
少なくとも僕が高校生のころは、そうでした。
つい先日、何を血迷ったか、PoemRingに参戦しましたが、そこにリンクされているおびただしい数の詩たちも、おそらくすべてがすべて、いわゆる散文詩でしょう。
今では、詩といえば散文詩と決まっているのです。
 
なのに最近、俳句っておもしろいもんだなと、少し思うようになりました。
MIDI ROOMの話を引き合いに出すまでもなく、僕は気まぐれに作曲もします。
詞を書き、メロディーを付けます。
このことが嗜好の変化に関係しているのかもしれません。
曲を書いていると、どうしても言葉をはめ込むわけですから。
語調を意識しないで、わざと自由に書いて、それを曲に載せることもありますが、二番の歌詞というか、繰り返しの部分に入ると、必ずはめ込みという作業が発生します。
これは、考えてみるとゲームです。
制約を楽しんでる意味があるのです。
何かをでっち上げる楽しみと言い換えてもいい。
俳句は写生で、小説のような創作じゃないという人もいるでしょう。
でも、冷静に見ると、表現の中に相当な誇張があるのが普通です。
それほどでもないことが、俳句になると凄い鮮明で印象的なものに仕上がってしまいます。
やってみると、これは結構愉快な作業なんです。
詩も似ていますけどね。
 
俳句に心が動かされる理由は、もうひとつあります。
いろんなものを振り返っていると、どうしても気付いてしまうんです。
ずいぶん遠くまで来てしまったな、と。
つまり、ついつい残り時間を意識してしまう。
これは、逃げようもない厳粛なる事実ですから。
どうしても、もう、時間を大切にするようになります。
ふれあいを大切にすると言い直してもいい。
「冥土のみやげに」というと奇異に思われるでしょうが、それくらいインパクト強く自分を戒め、残り少ない時間を改めて自覚し、束の間の時間でさえ、大切に暮らしたいと思うのです。
そして、時間を慈しみながら暮らすのに、俳句は意外とあうのです。
 
僕がご贔屓にしている俳句のサイトは《たじま屋》ですが、ここには【一日十句】という凄まじいコーナーがあります。
いうまでもなく、毎日毎日、10句詠むのです。
死んだように暮らしていたら、とてもこうはいきません。
世捨て人気分で、陽気に笑ってばかりでも出来ないことです。
 
僕が作るものは、多分、俳句とはいえず、季語なども意識の外ですが、下手は下手なり、楽しみたいと思っています。
ただ、心配事もあります。
どんどん俳句の感性が磨かれていって、掲示板の【辞世の歌の部屋】がゲストのみなさんが近寄りがたいほどに神々しくレベルアップしてしまったらと、それだけが……。
ハ、ハッ、ハックション!
ごめん。
 
 

 
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