立山黒部と古都高山の旅−事件簿     2000/09/13
 
 
《 寄らば切るぞ 信濃路の悲劇 駅弁食う 》
 
結婚して25年経ち、新婚旅行以来一度も妻を泊まりがけの旅行に連れていってないことに気付きました。
理由は折々にいろいろとありましたが、いってないという事実は事実です。
その罪ほろぼしとして、彼女が好きな「山」に出掛けることにしました。
信濃大町から立山へとアルペンルートを抜け、飛騨高山に寄って帰る、あえてサブタイトルを付けるとすれば、〜立山の自然と古都の余韻を楽しむ旅〜です。
途中、標高2,450mの室堂(ルート中の最高地点)散策や、1,930mの弥陀ヶ原では「天望・立山荘」に宿をとり、勇壮な高原のトレッキングも計画に入れました。
すべては妻の望みのままに。
 
さて、いよいよ出発です。
午前中にただ1本だけ、名古屋から信濃大町への直通の特急電車があります。
その名も、「しなの5号」。
なぜか「あずさ2号」を思い出させるその魅惑的な列車に、「あずさ2号」で歌われた駅とは違うと知りつつも、勝手に胸ときめかせながら、僕らは乗り込んでいきました。
通路をはさんで隣の席に陣取ったのは、どこにでもいそうなご婦人4人組。
年齢的には、ほぼ僕らと同じくらいかな。
見ようによっては美人な感じの人もいて、上品そうな外見で、お金だって持っていそう。
なんでも、旅行は5月の連休明けが安いとか自慢げに解説したりして、いかにも旅慣れた感じでしたよ。
だから、今回も夏休み明けを狙ったのでしょうか。
 
「でも、最近の若い人たちはマナーが、ね」
「そうそう。(中略)で、それはもう、開いた口がふさがらないの」
「ああいうのは、親の責任もあると思うのよね」
「こんな感じでいくと、世の中が大変なことになってしまうわよ」
なるほど、なるほど。
特に周囲に配慮して声をひそめるでもなく、予想もしなかった傍若無人なおしゃべりが始まりました。
人は見かけに寄らないものです。ちょっと幻滅。
やがて電車は都会を離れ、山村風景に溶け込んでいきます。
しかし、4人組のおしゃべりは続きます。
4人が同時に携帯電話を掛けているみたいなもの。相当なうるささです。
しかも、終わりのない電話。
 
美しい渓流沿いの線路にさしかかると、さすがに旅情を誘われます。
電車が川を渡るときなど、沿線の岸辺には、カメラを構える鉄道マニアたちの姿も見えます。
思い思いのポイントに陣取り、あんなふうにして、ひがな一日、お目当ての電車を待っているのでしょう。
僕らの乗っている箱にも、静かな口調で、名所解説の車内放送が流れ始めました。
「左手の……は、……で、秋になりますと……」
もちろん、話の内容は、件のご婦人たちのおしゃべりにかき消されます。
僕らが乗った箱の乗客は不幸です。
「だって(前略)でしょ、それに(中略)でしょ、それにあなた(後略)なのよ、どう思う?」
「だからね、若い人たちに、誰かが公徳心というものを教えなきゃだめなのよ」
「そうそう、わたしが前に出てもいいんだけど、誰かが注意しなきゃ」
「ああいうのを見てると、わたしなんか、許せないって感じなのよね」
一般的な世直し談義は際限もなく続き、そんな繰り返しに飽きると、今度は、娘の嫁ぎ先の一家の無神経さがやり玉にあがったりもします。
まさに、妖刀村正、寄らば切るぞ。
そんな天衣無縫で迫力満点の会話の中に、チラリと「黒部…」という言葉も。
おやおや、どうも、ご婦人たちの目的地も信濃大町みたい。
これは終点まであきらめるしかないかなと覚悟を決めたとき、悲劇は起こりました。
電車が、さしたる特徴もない田舎駅に止まり、しばらくして、僕らの少し前の席で、突然、急に網棚から荷物を下ろし始めた純朴そうなおばさんたち。
人のよさそうな顔が、引きつっています。
ひとりが、あわて手荷物を抱え降り口に走りました。
連れも、間髪を入れずにそのあとを追います。
その時ドアは静かに閉まり、何事もなかったかのように発車。
そっとうかがうように見ると、ドアの内側に立ち尽くしているのが見えました。
 
車内放送の目的は、通過地点の見所紹介だけではありません。
乗客たちに、次の停車駅を告げるのも大切な役目です。
田舎の駅では、ホームの駅名表示板も電車の窓からはそんなに見やすくはないし、あっと思ったら通り過ぎてることもあるし、事前にひとつ前の駅で確認して準備しようにも、これは特急であり各駅停車じゃないし。
かくして、新幹線のような電光表示のない、こんな古いタイプの特急では、頼るのは車内放送のみ。
しかし不運にも、、次の停車駅を告げる車内放送は、この箱では聞こえません。
降り損なった人たちは、でも、もう席には戻ってきませんでした。
僕らにできるのは、せめて2組目の犠牲者にならないよう、問題の4人組と目を合わせないようにして、自己防衛に細心の注意を払う。これしかありません。
 
やがて、車内販売がやってきました。
信濃大町で11:34に降りたら、僕らは、すぐに11:40発の路線バスに乗り換えるのです。そのため、それまでに、この電車内で少し早い昼食をとっておく必要がありました。
それで、僕が手を挙げてワゴンを押してくる女の子を止めると、すかさず横から4人組が、
「ああ、わたしはあれとこれね。ほら、あなたはどれにする」
と、さっそく例の調子で始めました。
もちろん逆らったりしません。
どうぞ、どうぞ、です。
O・Bさんなら、さしずめ、それまでの経過もあるし、苦言のひとつも呈しかねない状況ではありましたが、楽しく過ごしたい旅の途中ですから。
こんな人たちと、かかわり合いになどなりたくないし。
ひたすら、じーっと嵐が去るのを待って。極力、彼女たちとは視線を合わさずに……。
その時に買った幕の内弁当。
どんな内容だったか、どんな味だったか、まったく記憶にありません。
 
でも、雨のない雄大な室堂平も散策できたし、雷鳥沢では雷鳥らしき影も見て、翌日の雨の弥陀ヶ原でも色々な高山植物の写真が撮れて、妻も大満足でした。
盗掘されるから観光客には教えないという穴場の花も、帰りのバスに乗る間際に、地元のお姉さんから特別に教えてもらってカメラに収めることができたし。
オフシーズンの山のホテルの夕食のときも、レストランの窓枠に切り取られた風景は墨絵のように幻想的で、日暮れと共に下界から流れ寄せるようにあがって来た雲が、峻厳な山々を、あたかも海に浮かぶ島のように浮かび上がらせていました。
飛騨高山の坂の途中にある古めかしいホテルも、分厚い飛騨牛のステーキを中心にした凝った料理で美味しかったし、女性経営者? の(これは○×流の作法になっておりますという)いちいちご丁寧な、出てくる料理毎の解説には多少辟易もしましたが、部屋や廊下の壁に掛けられている額も、センスの良さがうかがえるものばかりで素敵でした。
(センスの良いホテルをここまでにしたのはきっと先代で、それに余計な解説を添えて味気ないものにしてしまっているのは彼の娘(2代目)だと、ダイニングホールに後付されている大型クーラーの様子などからも、そう僕は睨んだのでした)
 
さて、3日目は、東海地方は悲惨なことになってしまっていました。
その影響で、僕らが予定していた高山から名古屋経由の帰りのルートは全滅。
新幹線自体が、米原・静岡間が不通で、かつて経験したことのない状況下にあるとテレビ画面が叫んでいました。
「飛騨の里」見学の予定はキャンセルせざるを得ません。
(前日夕方、疲れた足を引きずりながら、わずかな時間でも伝統的な町並みを散策しておいてよかった)
高山駅では、広島や東京に帰る旅人たちがぼう然と立ちつくしていました。
若い女性ふたり連れが、目的地方面のJRが全滅と聞いて「じゃ、タクシーで行くしかないんですか」に、
道路も寸断されていますからねぇ、とつれなくこたえる駅員。
僕は妻を振り返り、「もう一泊するのが一番いいよ」といったけど、
「あす、レッスンがある」と妻がいうので、時刻表とにらめっこして、富山まで逆走して富山から湖西線経由で大阪まで行くルートを発見。これだと米原がどんな状況だろうと関係ない。
名古屋から特急電車が来れないため、やむなく高山発の各駅停車で富山へ。
富山駅でも、名古屋方面に向かうお客の怒号が飛び交っていましたが、大阪方面は問題ないとのこと。
とりあえず何とか新大阪まで戻り、駅のビアホールで今回の旅の締めくくり。
 
それにしても、名古屋都市部の河川の氾濫も、テレビ画面で見る限りは、神戸の震災に次ぐものすごい悲惨さに思えましたが、それよりも、そしてアルペンルートのダイナミックな眺望よりもなによりも、なんといっても、あの4人組の印象こそが一番鮮烈だった旅だったと、最後に申し上げておきましょう。
しかし、いつか誰かが注意してあげないと……。
でも、効き目はないんでしょうねえ。
合掌。
 
 

 
前の話へ戻る 次の話へ進む
 
【夢酒庵】に戻る

【MONSIEURの気ままな部屋】に戻る