白秋    2004/07/07
 
 
「書を捨てよ、街に出よう」
「青年は荒野を目指す」
 その言葉の響きに心打たれ、僕らはふるさとを捨てたのでした。
 それから30年(明らかに40年の間違いですね=7/11訂正)近くが過ぎ去りました。
 
 カモメのジョナサンを翻訳した五木寛之は、巻末の解説で、「大衆の求めるものが、この物語のさし示すものに重なるとすれば、そこには或る怖ろしい予感が横たわっている」と書いています。その意味は、現実の生活や社会を低く見る風潮に対する警鐘です。
 ふるさとを捨てた僕らの歩いた軌跡を今振り返るとき、五木寛之氏が見抜いていた危険性がまさに現実のものとして、胸に刺さります。
 ジョナサンは、自分らしく飛び続けるために群れを離れます。えさをとることなど、ジョナサンにとっては問題ではないのです。かっこいい限りです。
 
 僕らがふるさとを捨てたころ、高石友也は、
♪ 丘の上に たくさんの
   ペナペナ板で出来ている
   ちっちゃな箱ちっちゃな箱 みーんな同じ… ♪
 と歌っていました。
 当時、マイホーム主義という言葉があり、小市民という言葉がありました。
 そして、当然のことながらそういうタイプの人間を低く見る社会的な風潮があり、僕らも、小さな幸せを求めようとする、平凡な価値観を持った同級生たちを軽蔑していたのでした。小さくまとまろうとするなんて、最低。僕らの可能性は無限であり、自分の未来をいかに鮮やかに彩るかが人生最大のテーマとして、夢見ていたころの話です。
 
 でも、現実には、それでは生きていけません。みんなダイヤモンドの原石だと思っていたけど、ほとんどの人たちは、悲しいかな、磨いても磨いても光を放つことのないちょっとだけ個性的な形をした普通の石ころだったわけですから。滑稽ですよね。意識的に、あえて現実から目をそらしていたのかもしれません。
 むしろ、いかにして食べるかが、生きていくための基本的なテーマなのに。その最低限のテーマをクリアして初めて、人生をいかに彩るかという、一人前の大人としての話に加わる資格ができるのに。
 
 数日前、高校3年生のときの同窓会の案内が届きました。
 もちろん参加しますとも。人生の秋、白秋を迎え感慨深いものがあります。それは後悔といい換えてもいいでしょう。いくら懺悔しても懺悔し足りませんから。若い人たちには、僕らの息子や娘たち世代には、僕らの犯した失敗を繰り返してほしくはありません。冷静に現実社会を直視し、そのうえで努力を惜しまず、最善を尽くして、困難な時代を切り開いてほしいと思います。
 いま、五木寛之氏の怖ろしい予感が、現実のものになろうとしていますよ。
 
 
 

 
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