おいらいち抜けた    2007/04/14
 
 
 春めいてきました。
 睡蓮鉢の中のメダカさんたちも、勢いよく動き回ってくれています。
 
 もしも、この宇宙に、創造主というような存在があって、庭の睡蓮鉢の中を僕が覗き込むように、人間たちの愚かな営みを、まるで手塚治虫の「火の鳥」のように、遥か彼方から眺めているとしたら。そして、もしも、そのような存在、立場に、自分が置かれたとしたら。
 はっきりいって、うんざりです。
 神様になんか、なりたくもない。
 
 
 自由にものが言えるということは、これはどうなのかなと考え込んでしまいます。みんなが、自由にものを考え、発言する手段を手にした、それは素晴らしいことのはずなのに。
 最近どうも、人間たちの愚かさばかりが花盛りで、失望し、気持ちがくじけて、座り込んでしまいたい気分です。
 
 高校生のころ、世捨て人という言葉に、憧れていました。
 世の中の空しさに気付きはじめたころで、どうもがいても、この空しさからは抜けられないと知って。でも、世捨て人になるには僕は若すぎて、仕方なく、その空しさを振り払おうと、夢中になるものを探しました。幸い、いくつか夢中になれるものを見つけ、我を忘れて熱中し、その時間帯だけは、とりあえず忘れていられたのでした。
 とはいえ去るものは日々に疎し。富も、名声も、悠久の宇宙の歴史の中では一瞬のこと。その宇宙ですらも、永遠ではない…。
 
 
 ああ、もう疲れた。
 いつまでも手取り足取り、そんな優しくなんかしてられません。
 
 
 世の中、よーく見たらわかること、いくらでもありますよ。その時点ではわからなくても、何年か経てば、歴史が証拠を残していきますから。時間が考える材料が増やしてくれたら、あのとき誰が嘘をついていたか、自然に見えてくることだってあります。
 
 今はまだ結論が出せないことを、すっかり感情的になってしまって、口角泡を飛ばしてる人たちもいます。相手の主張の問題点を、お互いに指摘しあって。黙って待つことが出来ないんです。明日のことは明日になればわかる。サイコロの目が、どっちに転ぶかは、息を呑んで待つしかない。とりあえず賽は投げられたわけですから。
 いま、こんなに険悪になってしまうと、厳然たる答が出ても、屁理屈をこねたくなるんです。結果を素直に認めたくなくなる。
 議論に参加してもいいけど、参加したいなら、発言したいなら、その前提として、聞く耳を持たねば。それは基本的なことですから。
 
 岡林信康が、「おいらいち抜けた」と田舎に引っ込んでしまった気持ちは、その時点で僕だってしっかりとわかっていたけど。
 わかってはいたけど、でも…。
 
 ああ、ほんと、もう知らん。
 
 
 

 
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