ぬる燗・天婦羅・湯豆腐    2007/02/19
 
 
 居酒屋というのは庶民の味方のようで、必ずしもそうではないという話をしようとしています。
 江國滋氏だったと思うけど、お酒を「ぬる燗で」と注文したら、ひやと熱燗しかないと断られたという話を、何かの本に書いておられました。それで済めばまだよかったわけですが、店の親父が、
「熱燗をしばらく置いとけば、手前の好きな温度になるさ」みたいな言葉を吐くに及んで、さらに、傍らにいた常連と思しき客に、
「まったく最近は、通ぶってぬる燗などと注文する輩がいるから…」みたいな、あてつけがましい言葉を浴びせ掛けられたとのこと。
 熱燗にした段階で、アルコールも日本酒本来の香りも吹っ飛んでしまって、そんなものの冷えたのと、ぬる燗とを一緒にしてもらいたくないと思っていたら、追い討ちをかけるように、色々と嫌味を並べ立てられたので、怒って店を出たという話でした。
 立ち読みしているこっちまで大いに不愉快になり、せっかく買おうと思っていたその本を元に戻して、そそくさと立ち去ったのでした。
 
 札幌のラーメン屋の親父で、
「あんたはそこ、お前はコートを脱いでそこに掛けて、その間に座れ」みたいな指示をする店があるというのは、椎名誠さんの本で読んだ話です。
 天婦羅の高級店で、天つゆが許されなくて、塩しか出さない店というのもあるらしい。
 ウスターソースや、とんかつソースを希望しても、到底許されないわけでしょう。
 
 京都で、歴史を感じさせる湯豆腐の店に入ったとき、ポン酢に七味が添えられてなくて、無遠慮に所望したところ、店員の女性は大いに当惑し、困ったような顔をされましたが、しばらくして、女将さんみたいな人が、どこからともなく持ってきてくれました。
 望みが叶ってよかったわけですが、どうも、鼻で笑われたような気がして、入るんじゃなかったと、後悔したことがありました。
 
 
 
 お客は何者で、料理人は一体何様か、という話なんですよ。
 勝新太郎が常連客だったという店を、テレビで中村玉緒さんが案内していましたが、その番組の中で、生前に勝さんが頼んだ、元々店のメニューには載ってない料理というものを紹介していました。目からウロコ。
 客が注文すれば、それに応えるのがプロの料理人でしょう。そして、あくまでも作るのが仕事。料理を作って、出してしまったら、そこから先は、客の自由です。
 詩や小説も、作るまでが作者の守備範囲。あとは読み手に委ねられます。質問されたら答えればいいけど、呼ばれてもいないのにしゃしゃり出て、作品の解説なんかしちゃいけない。
 絵もそうです。僕の師匠は常々、「口で描くな」と僕らを戒めていました。ズルイ僕らは、ともすれば哲学的なタイトルを付けたがっていましたから。
 
 揚げたての天婦羅を、カウンター客の前に置いたら、料理人としたら、あとは運命に身を委ねるしかありません。熱々のうちに食べた方がおいしい。出されたらすぐに食べて欲しい。その気持ちはわかります。そうに決まっています。それはわかりますが、必ずしも客は、食べること、そのことだけのために来ているとは限りません。客にもそれぞれの複雑な精神世界があり、それぞれの事情、悩みを抱えてカウンターに座っている場合だってあるわけです。食べ方を説明してもいいけど、それはあくまで「参考」でなくてはなりません。
 
 本当の意味での料理人とはどうあるべきか。その答えは人それぞれだと思いますが、いくら腕がよくても、人格卑しい人の作ったものは、僕は食べたくないなあ。
 
 
 
 

 
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