番号化された弁明    2001/03/08
 
 
若い社員が言い訳するのを撃退した、凄いおじさんの話を何かの本で読んだことがあります。
仕事上の遅れや不手際を叱責されるたびに、誰もが言い訳を繰り返す。よくある光景です。みんなが、目の前の失態の原因を外部的要因に求めて。
そのおじさんの部下たちも、そうだったのでしょう。
業を煮やしたおじさんは、彼らの日頃の言い訳をリストにして、項目の頭に番号を打ち、「君の言い訳は何番だ」とやったというのです。
かくして、若い社員たちも恥じ、言い訳する者が少なくなったと書いてあったと記憶しています。
ある意味痛快な話ではありますが、なんとなく出来すぎているようにも思えます。
 
僕は、少年時代からよく言い訳をしていました。
言い訳は得意技と言っていいかもしれません。
もしかしたら、ずるがしこい少年だったかも。
その意味では、言い訳をしない人は潔く、男らしくてカッコイイということになります。
つまり、言い訳は、狡猾な責任転嫁ということでしょうか。
言い訳をする人間は人格が卑しい。
少なくとも、「君は何番だ」とやった御仁は、部下をそういう目で見ていたということでしょう。
 
考えてみれば、言い訳が出来る人は幸せな環境にいるようにも見えます。
「なぜだ、どういうことだ」と、ドラマではよく耳にするせりふですが、実社会では、必ずしもいつもその言葉を発してもらえるとは限りません。
心の内側に悔しい気持ちを隠しての「申し訳ありません」に対して、「そうか」とか「わかった」とかいって、背を向けるだけの人が結構います。
これは、なかなか切ないものがあります。
自分のことをいつも陰から見ていて、すべてを理解してくれているのか。それとも、まったくの評価外の人間として見捨てているのか。はたまた、意識して太っ腹な上司を演じているのか。
 
結果がすべてという意味では、言い訳が許されない場面もあるでしょう。
でも、たとえ結果は不出来であっても、取り組んだ過程を評価してほしい…と思うのは甘えでしょうか。
最善を尽くしたあげくの、この芳しくない結末。
そういうものもあるのです。
言い訳を聞いてほしいときだってありますよね。
 
 

 
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