僕の生まれたムッシュ家は、戦国時代、備後地方に山城を構えていました。 一族は滋賀県の発祥ですが、中国山地沿いに九州まで足跡が広がっています。 我が家の祖先である備後のその城は、戦国時代に毛利氏によって滅ぼされたと教えられて育ちました。 ムッシュ城の城跡にも、少年時代、荒れて獣道のようになった傾斜を登り、2度ほどいったことがあります。 中学の同級生だった黒川という男が、自分の家はムッシュ城の家老だったというのを聞いたときは、「おおっ、君は家来だったのか!」と喜んだりもしました。 そんな我が家の屋号は「塩屋」でした。 時代を経た屋号ほど、謎に満ちたものはありません。我が家にしても、なぜ塩屋なのか。それだけが謎でした。 もちろん、誰に聞いても、昔から一度も塩など売ったことはないといいます。 数年前の毛利元就ブームのとき、広島大学図書館に毛利家の文書が所蔵されていると聞き、父が調べにいきました。 すると、なんと、ムッシュ氏は毛利氏に滅ぼされたのではなく、毛利に帰順していたことが判明したのです。毛利氏の軍門に下り、主権を失ったという意味では滅ぼされたという言い方もあながち間違いとはいえないかもしれませんが。 そして、帰順の際に毛利氏に提出されたムッシュ家文書も、保存されていたのです。 父はそれをそっくりコピーして、持ち帰りました。 その中に「塩屋」という文字がありました。 あるとき、ムッシュ家に塩屋何某という人が養子に入っていたのです。もちろん、毛利氏に帰順するより前の話です。 ここからは推測です。 はじめ僕は、そのとき養子に入った人物の旧姓が塩屋であったから、以後、屋号が塩屋になったものと理解しました。養子に来たその人のことを、まわりが旧姓で呼んだのだと。これで屋号の謎が解けたぞと、そう思いました。 でも、塩屋何某が養子に入ったとき、そのときムッシュ氏はムッシュ城の主なのです。屋号で呼ばれるということが本当にあるでしょうか。 歌舞伎役者じゃあるまいし、城主が屋号で呼ばれるなど、ちょっと考えにくいようにも思えます。 僕はいまは、逆に、そのとき養子に出した塩屋家が、以後ムッシュ姓を許されたのではないかと疑っています。だからこそ、旧姓が屋号という形で残ったのではないかと。 だとしたら、我が家にムッシュ氏の血は入っていないことになってしまいます。 う〜ん。 うれしいような、悲しいような。 もうこれ以上の追求はやめて、いっそこのまま、永遠の謎ということにしておきましょうか。 |