男の顔    2006/03/04
 
 
 リンカーンは、「男は40歳になれば自分の顔に責任を持たねばならない」といいました。
 生き方は顔に表れるという意味だとされています。本当にそうなのかなと思っていました。そういえば、人相の悪い政治家は多い気がします。生き方やその結果としての人格が顔に現れているといわれれば、わからないでもありません。僕が30ン年勤めた職場でも、テレビに引っ張り出されては苦しい釈明に青息吐息の男など、あまり爽やかな顔とは申せません。
 でも僕は、この場合の「顔」というのは、ビジュアルとしての顔ではなくて、内面を含んでの意味じゃないかなと思っていました。「顔」の部分を「名前」と置き換えてもいいくらいの。40歳を過ぎたら、自分の存在、名前に責任を持てと。本当はそういう意味じゃなかったのかと。
 その方が、言葉として深いし、素直な解釈に思えませんか。
 しかし、真実はそうじゃなかった。側近がリンカーンに、大臣候補としてある人物を推薦したのですが、「顔が気に入らない」といって、それを蹴った。「顔なんて親の責任で、本人としてはどうしようもない話じゃないですか」という側近に対して、冒頭の言葉が出てきたらしい。
 もろ、露骨にビジュアルでしたね。
 
 となれば、気になりますよ。ということで、実は今回はビジュアルとしての顔のお話です。
 こわいですねえ。だって、これまでの人生が顔に出てしまってるわけですから。そうなると、これはもう隠しようがありません。そういえば、大宅壮一氏によると、「顔は男の履歴書」だそうです。履歴書を貼り付けて夜の街を飲み歩いていたんですねえ、僕たち。こわいですねえ。
 
 
 
 さて、何枚か肖像画を描いて、自画像も描いて、気付いたことがあります。
 男は、自分の顔がわからない。
 僕だけじゃありませんよ。
 一緒に居酒屋で飲みながら、上機嫌で携帯でシャッターを切り、ちゃっかりこれも商売と、
「ほらほら、どのカットにしようか。これなんか雰囲気が出てる。お前らしいんじゃないか」
 そういうと、相手も合わせてくれて一応は盛り上がるわけですが、カットを決めた後で、
「それにしても、自分がどんな顔をしてるか、あまり考えたことがないからなあ」
 ほら、こわくない? 自分がどんな顔をしてるか、人は案外自覚がない。少なくとも、僕のまわりの50代の男たちは、口を揃えて「よくわからない」というのです。
 でも、いわれてみれば、そんなものなのかもしれないと思いましたよ。
 
 人には様々な表情があります。
 写真に撮ると、わかるでしょう。不思議な気がします。自分とは思えない写真が何枚もあります。逆に、どれも確かに自分なんだけど、じゃあ、その中から1枚だけ最も自分に近いものを「これが自分です」と断言できるものを選べといわれたら…。
 いまアトリエに置いてる自画像は、いわば習作。きちんとしたのを1枚、そろそろ描いておかねばという気持ちがあります。それで、事務所やトイレや街中や、思い付くままに光の状態に変化をつけては自分の写真をとってますが、なんだ凄い男前じゃないか(演出上の誇張は許される)とか、ふざけた顔だなとか、そういうことは見ればわかりますが(^^)、正直、これ本当に僕? みたいなまるで別人のカットだってあるわけです。
 友達がモデルの場合は、僕が知っている、僕の中のその人の表情というものがしっかり確立されていますから、迷いません。狙いがはじめからはっきりしていますから、そういう写真がなければ写し直したり、場合によっては制作の過程で調整して、納得のいく顔にすればいい話ですから。
 でも、自画像を描こうと自分の顔を写真に撮っていると、どれが真実の自分の顔なのか判断が付かなくて、まるで迷宮に迷い込んだような感じになってしまいます。
 
 高校生のとき、あるいは大学生のとき、なにか記念の寄せ書きなどには、それ用の得意の似顔絵がありました。髪が天然ウェーブで特徴があり、頬からあごにかけてまばらに無精ひげを散らし、口をすぼめて笑ってる顔です。
 ただ、それはデフォルメした漫画であり、この際参考になりません。
 
 早い話が、迷っています。
 出来ることといえば、携帯の画面を180度回転させて自分で画像を確認しながら、闇雲に、カシャッ、カシャッ、とシャッターを切ることくらいです。
 現在のところ、探しているのは、意思の強さを秘めた表情で優しく微笑んでいるジェントルな男の肖像。
 
 誰か僕の顔、知りませんか?
 
 
 
 

 
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