愛すら     2000/02/06
(娘と長文のメールのやりとりをとおしての雑感)   
 
中学生時代、「言葉遣いなんか気にしないで話をしよう」といってくださった先生と出会って、それまでは内向的だった僕がいよいよ語り始めました。
土曜日や日曜日の昼間はひとりで川に釣りにいき、陽が落ちると、図書館から借りてきた本を親に隠れて深夜まで読みふけっている、沈黙を友とするような少年が。
中学校で、僕はたくさんの本を読みました。純文学だけでなく、日本の歴史から外国の推理小説、珍しい古典の解説書まで。
基本的には空想家で、黙り込んでいる時間が好きでした。
作文や読書感想文は得意でも、人と話をするのはそんなに上手ではなかったと思います。
 
その先生とは、言葉遣いなど気にしないで付き合うことができました。
積極的に話をするという作業は、でも、それまで内向的だった少年にとっては、そんなに簡単ではありません。
そのために僕がやったのは、人の話を途中まで聞いたところで内容を把握し、フライング気味に自分が話すことを考えはじめるという方法でした。そうでもしないと、僕からは何も話せなかったからです。
このやり方は、当時の僕にとってはちょっとスリリングで、一種のゲームのようなものだったかもしれません。
夢中でしたが、楽しかったように思います。
途中で相手の話を半分しか聞いてない状態になるわけで、会話の礼儀からしたら失礼千万ですが、でも、少年が上級生や大人たちと対等な感じで話に加わるためには、それくらいのテクニックが必要だったのです。
タイミングのいい気のきいたセリフや、意外な発想のジョークなどは、それくらいの裏技を使わないと生まれませんでした。
この方法は結構功を奏したし、お前の話はおもしろいと喜ばれると、僕も人と話をすることがどんどん好きになっていきました。
 
大学生になり、おおっぴらにタバコをくわえ、無精ひげを伸ばすようになると、もう、少年時代の奇妙な会話テクニックなど必要なくなっていました。
相手の話をちゃんと最後まで聞いて、それに対するアンサーメッセージを、落ちついて、ゆっくり、考えながら話をするスタイルが自然に身に付いていたからです。
現在では、相手の話を聞きながら、流れで思考モードに入っていき、相手が話し終えたころ、同時進行で僕の考えもまとまっているということが多いと思います。
でも時には、テーマによっては、ついつい複雑な思考の迷路にはまりこんでしまって、いつのまにか相手の話を聞く方がお留守になってしまうことがあることも認めざるをえません。
余談ですが、娘は、僕のその状態を見抜く達人みたいです。
「おとうさん、人の話、聞いてないじゃろう」と。
実に鋭いです。
真剣に聞いていたからこそ、話のずーっと遙か前の部分に引っかかったままでいるわけなんだけど。
 
基本的には僕は、文章を書いて考えるタイプなのだと思います。
文章というのは、会話と違って推敲ができます。
こうして文章を書いていても、あとで手直しすることが珍しくありません。
でも、話し言葉は、出ていったらそれで最後です。あわてて大声で呼び戻そうとしても、もう帰ってはきません。
とっさに考えた名言も、こいつは聞きようによってはひどい失礼な発言にとられかねないかなと気付いても、もう手遅れなのです。悪意にとられる心配のないメンバーならいざ知らず、世の中にはいろんな人がいますから。
遠慮のない発言が原因で、自分では気付かないところで幾つもの誤解を生み、敵を作ってきたふしがあります。どうも、そんな気がしてなりません。
「あなたの発言で傷つきました」というメールも、何回か受け取りましたし。
傷つく方がおかしいんだよと、そう思ったこともありましたが。
まあ、いずれにしても、沈黙を守ってさえいれば無用の敵は作らなくてすんだでしょう。キジも鳴かずば撃たれまいに。
 
時には僕も考えてみました。親しき仲にも礼儀あり、ではないかと。
でも、用心深く暮らすとなると、また、黙り込んでいたくなってしまいます。
もちろん、夫婦ですら、一定の距離感というものは不可欠だと考えています。たとえ親子であろうと、心の中にまでずかずかと土足で足を踏み入れていい理屈はありません。
親しい仲間同士でも、歯に衣着せぬ付き合いの根底に、そういう人間関係における距離感というものはありますから。
 
そういうことではなく、いいたいこともいわないで、それで本当に耐えられるのかということです。相手のことを大切に思うならばこそ、耳の痛いことだって口に出さねばなりません。
ただ、その場合、自分の考えとか気持ちを、できるだけ正確に伝えるようにしたい。ここです。
最近は、そう考えるようになってきました。
世の中には、わかりあえない人もいることを知ると、それはもう仕方ないことだとあきらめる面もあります。ついつい、投げやりな気分になってしまいます。
自分は自分のやり方をとおしてこそ自分ですから。
自分の欠点は自分の良さでもあり、欠点を消すことは長所を捨てることでもありますから。本当は明るく多弁なのに、静かで寡黙な人間のふりはできません。
そう考えると、残された手段は、できるだけ言葉を正確に操ることだけです。わかりあうためには、悔いのない表現を駆使しなければなりません。
いったいどうすれば、感情の微妙なニュアンスまで正確に相手に伝えることができるか、と。
 
でもまあ、むずかしいです。
難しいことは事実だし、それはわかっているけど、それでも僕らは、もっと努力して、もっと雄弁でありたいものだと思うのです。
もっと雄弁でなければ、愛すら育むことはできないのです。
 
 
                                 ムッシュ
 
 


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