馬は逆風を喜ぶ     2000/01/18
 
 
会計検査院調査官の随行として、とある鉄工所を訪問したときのことです。
そこの事務室に飾られていた、筆文字の色紙額に、ふと目がとまりました。
もとより町の鉄工所ですから、機能優先の小さな事務室ですが、その額は、まるで長引く不況に立ち向かうかのように、象徴的に存在している印象だったのです。
太くぶこつなその書体は、決して流れるような筆致とはいえませんが、なにやら魂がこもっているような荒々しいタッチで、『馬は逆風を喜ぶ  哲』とあり、その署名の下に手彫り風の落款が押されています。
右端には、たてがみを風になびかせた馬の顔の絵が添えられていて、いかにも町の鉄工所にふさわしい硬派な揮毫だなと感じました。
仕事中なので、何かのはずみにちらりと目をやるといった程度でしたが、気になる色紙額だったのです。
その素人っぽさから、おそらくはごく親しい友人か誰かからの手作りのプレゼントかなと思っていましたが、会計検査が進むにつれ、もしかしたら、先ほどから対応されている取締役の方ご自身の作かなとも思えてきました。(あ、でも名刺を拝見すると、この方は哲さんじゃないです)
馬は逆風を喜ぶ。
素晴らしい言葉だし、僕の日常的な発想にはない言葉でもあります。
あえて安易な比喩をさせてもらうと、「体育系のフレーズ」とでもいいましょうか。
どことなく屈強なラガーマンのイメージとオーバーラップするものがあるようにも思えます。
そういえばいま目の前で対応されている取締役氏は、頭髪を短く刈り上げちょび髭をたくわえられていて、いかにもラガーマンかはたまたアマチュア相撲の横綱かといった風情です。
少しだけ斜めに見ると、そのまま街宣車に乗せても十分に似合ってしまいそうでもある風貌。
いかつい、男っぽい感じをにじませながら、おだやかに、丁寧に対応しておられました。
 
「馬は逆風を喜ぶ」の底に流れる精神は、山中鹿之助の「我に七難八苦を与えたまえ」にも似ていますが、こっちには絶望的な悲壮感があります。「馬は…」の方は、逆に、なんとも前向きな力強さにあふれていて、「さあ、どこからでもかかってこい」といって身構えているようです。
 
情けない話ですが、僕などは、どちらかというとウェービングとダッキングの人生でした。いかにして困難から身をかわすか。時にはかわし損ねて、あわててクリンチに逃れたり。
考えてみると、僕は馬ではなく、どちらかといえば「アリとキリギリス」のキリギリスに近く。ただ、冬に飢えて死なない用心深いキリギリスですが。
歌って、踊って、冷静沈着に計算して。
いち早く逆風を察知しては、機敏に進路を変えたり首をすくめたり。
これじゃ、いくら人生を重ねたところで、困難に対してタフな男にはなれませんよね。
そうか。「馬は逆風を喜ぶ」ですか。
勉強になりました。
 
しかし、本当かなあ。
一度、馬に聞いてみたい気もしますが。
あ、そういうことじゃないのか。
 
 
                                 ムッシュ
 
 


前の話へ戻る 次の話へ進む
 
【夢酒庵】に戻る