わたし負けましたわ    2001/09/30
 
 
世の中には怖ろしい罠が無数に仕掛けられています。
なのに、世間に揉まれ自信を持つほどに、いつしか僕らは慢心し、油断してしまうのかも知れません。
それにしても、女はどうして口紅を塗り、お国はどうして宝くじを売り、お酒はどうして僕らを酔わせ、男はどうして無謀な夢に憧れるのでしょう。
いい気でいると、不幸は予告もなしに近付いてくるんだから。
いつの間にか親しげに肩を抱いて。
ああ、歯が痛い。
 
 
1億円使ってもまだ2億円残る幸運が、わずか3百円で買えるかもと思い込ませようとしてるのは所ジョージ。
3百円では無理でも3万円買えば、いや、ここはドッと一気に30万円買えば当たるかもと、大量に銭をつぎ込むことでその幸運が手に入るかのように見事に錯覚させて。
仮に連番で3億円分買っても、確実に3億円が当たるわけじゃないシステムなのに。
どうせなら、夜が明け酔いが醒めれば、前夜の憂いは一層深まっていると知りながら、それもまたよしと、あえて深い酔いに向かう飲兵衛たちと似た心境なのでしょうか。
 
なんにしても、リスクは覚悟の人生よ。
みんな、男たちはそう思っているのでしょう。
 
僕くらいの年齢になると、もう虫歯にはならないと説明を受けていました。
なるのは歯周病。時々雑菌が入って腫れます。
歯ぐきが腫れれば、これも一応痛みはあります。
でも、激痛は突然訪れました。
とはいえ、今日は全然腫れてはいなかったのです。なのに、ほとんど経験したことのないほどの激痛。
どうも、歯ぐきから侵入した雑菌が歯の根っ子の部分で炎症をおこしていたらしい。
これはもう神経を抜きましょうといわれれば、まな板の鯉としては神のなされるがまま。
治療台に乗って、目はつむっていましたが、何回も涙がにじみました。
 
痛みに弱い自分を痛感していました。
これじゃ大した拷問じゃなくても、きっと、すぐに白状してしまいます。
固く誓い合った仲間だって、裏切ってしまいそう。
 
実は今日は土曜日。行きつけの歯科クリニックは午後3時半までの診療でした。
でも、我慢できないくらい痛くなったのは午後5時過ぎ。
泣きべそをかきながらクリニックに電話を入れたら、「そういうことでしたら、開けておきますからすぐにいらっしゃい」と気持ちよく受けていただきました。
ラッキー。医院のすぐ裏手にご自宅があり、時間外はそちらに電話が転送されるのでした。
地獄に仏です。
さっそく、いそいそと出掛けていきましたとも。
麻酔を打って、それが効いてくるまで待って、歯に穴を開けて、神経を抜いて。
全部が終わったのは、もう午後7時過ぎでした。
でも、どうやら奥様とお出かけの予定だったみたいなんです。
治療の最中に、奥様が先生に何やら耳打ちしてる感じがあって、それに答えて先生が、
「もういい。君に先に行っててもらおうと思ったけど、やめた、いかない」
ドキッ!
これは、どうみても僕のせいみたい。
 
まいりましたよ。悪いことをしました。
歯が痛いくらい、グッと男らしく我慢してればいいのに。
痛みに耐えかねて意気地なく泣きついたひとりのろくでなしのお陰で、親切な先生のプライベートを台無しにしたあげく、夫婦喧嘩までさせてしまいました。
 
まったく、いつ、どこで、どんな不幸が僕らを待ち受けているか。
わ、罠じゃ。
あ、いえ、いつどこで、どんな不幸を撒き散らす羽目になるか。
ほんと、疫病神ですよね。
 
 
しかし、まさかこれが不幸としてはほんの序章に過ぎなかったとは……。
午後11時になったころ、再び痛みが襲ってきたのです。神経は抜いたはずなのに。
痛み止めを飲みましたが、なぜか効果がありません。激痛はこめかみに及び、脈拍とタッグで襲いかかってきます。頭が割れそうです。もう、半分くらい割れているかも知れません。
わめきたい。泣きたい。
でも、「泣いたら痛みが治まるの?」という妻の声が幻聴のように聞こえれば、弱音も吐けません。
じっと静かに横たわり痛みに耐えていると、滲んだ涙が集まって、ときどき頬を伝いました。
泣いたんじゃない。涙のヤツが勝手に……。
もちろん寝付けるはずもありません。
悶々とした、気の遠くなるような長い時間に耐え、明け方、4時近くになって、もう一度痛み止めを飲みました。
ああ、神様。
今度は、30分くらい待つと、少し効いてくれたみたいです。
うつらうつらしているうちに、なんとか朝8時。
ほんの少し痛みが和らいでる感じです。
おそるおそる舌でさわると、昨夜はパンパンだった腫れも少し引いたみたい。
おおっ! ようやく治り始めたか。なんとか我慢した甲斐があった。これから少しずつ治まっていくに違いないな。
そう思いました。うれしかった。
深夜に痛み止めをほとんど飲み尽くしていたので、クリニックに電話をして追加の痛み止めと化膿止めをリクエストしました。
わかっていますよ。
歯科医師夫妻にあれだけ迷惑をかけ、まさか日曜日の朝まで治療には押し掛けられませんとも。
電話口の向こうで、小さなお子さんの元気な声が響き渡ってもいましたよ。日曜日ともなれば先生も子供さんと外出の予定くらいありそうだし。
薬だけもらって、応対してくださった奥様に昨夜の無礼をおわびして、早々に退散しましたとも。
僕だって、そこまで礼儀知らずじゃない。
 
そう、固く決意したはずなのに、ああ、なんたることでしょう。その1時間後には、またあの恐怖の激痛が復活です。
ほとんど夜通し僕を苦しめた、あの無遠慮なヤツが再び襲ってきたのです。
悪いことに、今度も痛み止めは効きません。
ろくでなしの僕は、憔悴しきった気持ちで、リダイアルボタンを押していました。
 
もう勘弁して。
僕の負けです。
 
 

この朝の治療で無事に痛みが取れ、ほっとして帰宅した僕に、妻が、
「わたしだったら大声を出してる。よく我慢したね」
と声をかけてくれました。
泣かせるんじゃないよ。
 
妖しい口紅の女性はもう沢山だし、いまさら新しい夢を追いたくもないけど、昨晩お酒を控えたことだけは心残りでした。今夜は、その分も飲みます。
ん? 宝くじ、買ってみようかな。

 
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