ン10年ぶりに、備後楢崎城址に登ってきました。 子供のころと独身時代の、2回行っただけでした。 獣道のようなところを歩いた記憶だけが残っていたのですが、最近訪れたという人の、「整備されてたよ」という言葉に背中を押された意味もありました。 城跡めぐりを趣味にされている先輩が行って、子孫が行かないというのでは許されないだろうと。 さて、2回も登ったとはいえ昔のことです。 無事にたどり着けるかどうか不安でした。 車は、福塩線の河佐駅に停めました。 まずは、楢崎城の全景から。
河佐駅は、地図でいうと@になります。
ここが探訪のスタート地点といってもよいでしょう。 戻ってみると、道路わきに十分な駐車スペースがあります。 車は、駅でなくても、ここに停めたらよかったんだと思いました。 その場所から河の方向を見た景色がこれ。
進む方向は、こっち。 かつて楢崎城の守護寺だった、安全寺本堂の薄水色の屋根(丸印)をめざして。
さあ、この道を北上します。 出発です。
安全寺までは、まっすぐです。
途中、左手に安全寺専用駐車場もあります。
ここまで来たら、ほぼ安全寺に到着です。 地図ではCです。 ここがわかりにくい。
ここを、安全寺方向ではなく、まっすぐに北上するのです。
あとは道なりですが、途中には分かれ道もあります。
ここは、右手の角が竹林になっています。 帰りに、間違えないために覚えておきましょう。 道なりに進んでいると、初めて道しるべっぽいものがありました。 林道「城山線」とあります。
やっと到着です。 心臓が三分の一? 壊死している僕は、途中で何回か立ち止まり、腰を下ろし。 運動はしてもいいけど、心拍数が100を超えないようにといわれてるのに、120を超えてましたよ。 がんばって登りました。 たぶん、全行程30分くらい。
山頂には、社と神社みたいなものが建てられてました。
風雨にさらされ古びた様子から、ふもとにあった神社の神楽舞台でも移築したのかなと感じましたよ。 勝手な想像ですが。 バーベキューか焼肉をする金網とかがあって、地元の皆さんの憩いの場所になってることがうかがえました。 それでこの場所が守られているなら、ありがたいことです。
水戸黄門は従三位。 黄門様より偉い人みたいですね。 石碑の右横には、「明治四十四年三月 高田郡三田村 発起者 末裔 楢崎圭三」
石碑の左側は、僕には判読できません。
これだけは、昔に登った時の記憶に残っていました。 少年の心に、それだけ印象的だったんでしょうね。
街道を見渡す要害ともいわれ、関所的な要衝だった楢崎城跡から見た風景です。
さあ、お帰りはこちら。
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