似合わない喜びを求めて    2001/06/10
 
 
ネクタイやジャケットを選ぶとき、最近は妻に意見を聞きます。
僕が好きで選んだ物が、いざ身に付けてみると意外に似合わなくて、なのに彼女の見立てだと、悔しいほどに似合ったりするからです。
でも、果たして、似合わないより似合った方が良いのでしょうか。
しっくりとくる、ぴったり似合った状態というのは安定感がありすぎて、逆に、面白味に欠けませんか。
 
画面を、意図的にほんの少しだけ壊すというのは、絵の世界では珍しくありません。
ルネッサンス時代の大作には、広い画面のどこかに、息を抜く部分が作ってありました。
隙のない画面は見ていて息が詰まるから、画面の一部をさりげなく壊すことによって、その過剰な緊張感を和らげたいのだと、僕は師から教えられました。
卑近な例としては、花瓶や壺に花を差した静物の小品などの場合、斜め手前にレモンなどを置いたものでしたが、あれも同じ意味ではないでしょうか。
シンメトリーを崩したいのです。
 
目的は緊張を和らげるためであっても、意図とは別の効果もあると思うのです。
僕は、仕掛けをした部分にどうしても目がいきます。
表現がむずかしいけど、要するに、壊すことによって動きが生じ、パワーがみなぎるように感じるのです。
レモンを1個置いたことで、その脇役のレモンのことが、少しだけ気になる。
画面が少しだけ動きだしていますよ。
ただ、妻はそんなレモン的な存在を排除したいタイプなのかもしれません。
目立つのを好みません。
上品です。
僕は逆に昔から、目立ちたがっていたような記憶があります。
粗野かもしれない。
少なくとも、目立つことは気になりません。
もちろん、おとなしく隠れていたい時間帯だってありますけど。
 
似合うとか似合わないとか、それは、他人から見た話でしょう。
どう見えようといいじゃないか、とも思います。
第三者の目を意識しすぎている感じがします。
男の作法として見習いたくもないし、潔くもありません。
何をどう着ようと、所詮、自分は自分でしかないんだから、と。
でも、そうは思いながら……ね。
偽善者を装うにしろ、露悪家的に振る舞うにしろ、常に誰かを意識していますよ。
自分は誰の目も意識してないよという人も、鏡の中のそういう自分を意識していたりして。
 
そんな風に巧妙に自分を誤魔化しながら、ああ今日も、妻が見立ててくれたぴったり違和感のない方のネクタイを締めて、仕事に出掛けていくのです。
妻や、ネクタイ売場の若い女性が、この背広にはこれをと勧めてくれた、似合う方を締めて。
女々しく。
白状すると、時には自分で選んだヤツも使ってるんですけどね。
ほんの少し崩して、インパクトを、と。
美術の世界での、高度に磨かれたテクニックも、洗練された風格も、美の真実も永遠も、世の中にひとつとして同じ形はなく、時には流行と呼ばれ、それらは時代とともに変化する運命にあるのだと思ったりもしながら。

   
 

 
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