人間なんて(何かを求めている貴女に)    2002/06/16
 
 
【まえがき】
 
一体、自分は今こんなところで何をやってるのだろう。
そんなふうに考え、思い悩む人は希少種だと思うけど、しかし、まだ生き残ってるみたいですね。なぜだか、うれしい。
 
深く思い悩まず、気ままに、のんびりと暮らせたらそれが一番だという気がしますが、そういうのでは我慢できないタイプの人というのは、もがいている日常が少し素敵かもしれません。
でも、大変なんですよ。
何かを求めて旅に出て、ある日疲れてふと振り返ったら、
 ♪ そこにはただ 風が  吹いているだけ〜     
なんですから。
 
何かに熱中してても、もし、ふと冷静な時間の中で目覚めてしまったら、それはそれで意外と空しいものです。
だからかどうか知らないけど、本当は結構もがいてる人にかぎって、普段は、「なるようになるさ、のんびりいこうよ」などと笑います。
でも、その言葉にだまされてはいけない。 (−_−)b
 
それに、気を付けないと、本当に何かを求めてる人、何かに打ち込みたい人というのは、実は少ないんだという気がしていますよ。
こうなったら白状しましょう。
僕がいってるのは、高田渡がバーボン・ストリート・ブルースの中で愚痴ったのと同じ話です。
高田渡は、自分と同世代の人間が、気安く、「俺も昔はフォークをやってたんだよ」というのを聞くと不愉快だという意味のことを書いていました。
彼にしてみれば、たいしてやってもいない人間に一端の口を利いてもらいたくないのでしょう。
その点については前回ふれました。
その時僕は、それはおかしいんじゃないか、と反論しました。
確かに僕ら多くのフォーク小僧たちは、人生の何もかもを捨ててフォーク一筋の道を歩んだことはありません。フォークのために何も犠牲にしてない。だけど、フォークソングに憧れ、一日中ギターを弾き、自分で歌も書いて、生活の中でフォークが大きな位置を占めていた時代があったことは事実です。
だったら、文句を言われる筋合いはないと思うんです。飲んだ席で、いい気持ちになって、「僕も昔はフォークをやってたんだよ」くらいのことをいったって。
前回は、そんな意味のことを書いたのです。
だけど今、それと逆のことをいおうとしています。
 
吉田拓郎は中津川フォークジャンボリーで、
 ♪ 人間なんて ララ〜ラ〜ラララ ラ〜ラ〜
と、90分間歌い続けたと、高田渡が書いています。
そのまるで呪文か念仏のような、果てしない繰り返しの中に挟み込まれた歌詞は、
 
 ♪ 何かが ほしいおいら
    それが 何んだかわからない
    だけど 何かがほしいよ
    今の自分も おかしいよ
 ♪ 人間なんて ララ〜ラ〜ラララ ラ〜ラ〜
    人間なんて ララ〜ラ〜ラララ ラ〜ラ〜
 
まさにかつて僕ら若者たちのすべてが共有していた、これ! です。
「このままじゃいけないと思う。何かをやりたい。でも、それが何だか分からない」という葛藤ですよね。
でも、今僕は思うんです。
必ずしも、そういう人たちの全員が、もがいてるわけじゃない。
本当は何もやる気がなくて、なんとなく、そんな言葉を口にしてるだけの人も多い。まるでそれが免罪符にでもなるかのように。
 
 
【本論】
 
思うに僕らは、生まれてきて、ふと気付いたときから時間割が出来ていたような気がします。
だから、自分で時間割を作る必要が、全くなかった。そのために、そういうトレーニングが出来てないのかもしれません。
いや、その前に、誰かに時間割を作って与えてもらわないと何もできなくなってる意味もあります。
学校を卒業するまでは、いつも先生が決めてくれてたから安心だったけど、一人前の人間として社会に放り出されると、途端に、当然のことですが、自分の時間は自分で管理する必要が生じます。
幸いなことに、就職すれば、昼間はとりあえず会社が支配してくれますから、自分の迂闊さにも気付かずに過ごせるかもしれません。
でも、プライベートはどうするんですか。
 
死ぬまで気付かずに過ごせたら、その人は最高に幸せな人生を送った人ということになるかもしれませんが、普通の人間なら、いつかどこかで気付きますよ。
 
 
【あとがき】
 
そういうことですから、とりあえず、時間割を作らないといけないかなと思うのです。人生の時間割です。
自分だけのための時間割表の上に、まず、何を置くか。
そのためには、やりたいことがあるのか、ないのか、よく考えてみることから始める必要があります。
自分は、遊びたいのか、学びたいのか、スポーツをしたいのか、金を儲けたいのか、愛に包まれたいのか、社会の役に立ちたいのか…。
 
深く自問して、その結果、例えば、せっかく生まれてきたのだから、短い時間でも誰かの役に立って死にたいということなら、ボランティアでも始めたらいかがですか。
例えば、目の不自由な人のために録音図書を作る、朗読奉仕という仕事もあります。これは家庭で出来ます。
その前提として、これは本を読むわけですから、アナウンサーみたいなレッスンを受けることになるのが普通ですけど。
地域によって多少違うかもしれませんが、まず朗読のボランティアに応募して、採用されれば、レッスンを受けて、という流れになると思います。
ただ、この道は、相手も人物を見ますからね。時間をかけて育てても、すぐに飽きて辞められたら困るから。(^_^;)
 
趣味の世界を深めたいなら、絵画や陶芸に俳句、ピアノやバイオリン、おまけとしてフォークギター。織物や木彫り、漆塗りなどという世界もありますよ。
スポーツ好きだと、プールで泳いでる人とか、市民マラソンに参加してる人もいますよね。最近は女性も柔道をやるし、ボクササイズとかいうのもあるし。
空想することが好きなら、童話とか小説を書くのも楽しいですよ。マンガを描いて誰かに見てもらって、評判が良かったらリボンに持ち込んでみるとか。首尾よく行けば、いずれは趣味と実益を兼ねて……!?
 
もしも愛に包まれたいなら、希望に近い提案としては、家庭料理の道を究めてみるという選択肢も捨てがたいものがありますが。
 
 
 
初めに断っておきますが、どれにしても、多分、最終的には空しいんです。
僕は、そんな気がしています。
でも、心の中で突き上げるものがあるなら、だったら、やってみたらいいんじゃないでしょうか。
そう思います。
やってる途中でこれは違うなと思ったら、いつ辞めても自由だし。(ボランティアだけは迷惑をかけるかもしれませんが)
何もしないで、食って寝て起きて、だけの人よりは、何かに夢中になってる人の方が、何倍も魅力的だと感じるし、ね。
 
だけど、最初にもいいましたが、何かがやりたいんだよと悩んでる人たちは、なかなか、やりません。
まるで、やらない言い訳を捜してるみたい。
 




【おことわり】
バーボン・ストリート・ブルースについては、全体を読み終えたあとで、また何か書くことがあるだろうと思って、前回のタイトル末尾に(抄)と付けましたが、今すべてを読み終えて、高田渡氏は年寄り独特の頑固さでおんなじ趣旨の繰り言を手を変え品を変えては展開しているに過ぎないことが判明し、つまり、僕としては前作以上に特に付け加えることもなく、(抄)は(抄)のままで放置される見込みです。
あえていえば、今回のこれだって、続編といえば続編かもしれないけど。
 
 

 
前の話へ戻る 次の話へ進む
 
【夢酒庵】に戻る

【MONSIEURの気ままな部屋】に戻る