僕のバーボン・ストリート・ブルース(抄)    2002/05/25
 
 
 「これ貸してあげる」といって手渡された高田渡の『バーボン・ストリート・ブルース』は、巻末に2001年8月15日 初版第1刷とあります。発行所は山と渓谷社。
 この本が出版されたころの彼は、日常的にはこんな感じで、「具が欲しい」変なおやじだったんだけど、この本では、ずいぶん頑なな理屈を展開しています。僕のことを人間の屑みたいに言って、はは…。
 まるで、叱られてるみたい。
 例えば、
 今、僕と同世代ぐらいの人たちと飲むと、その席で、「オレも昔は学生運動をやっててさあ」とか「フォークソングか。懐かしいなあ。オレもやってたよ」などと言い出す人がけっこういたりする。だけど僕が見るに、中途半端にかじったヤツにかぎってそういうことを言う傾向にあるようだ。行くところまで行った人はまずそんな話はしない。だから僕も「昔、オレもさあ……」というような話をする人間にだけはなるまいと思っている。
 
 すみません。だから、それは僕です。
 昔は山岳部で山を愛し、ギターも弾いてました。そして「昔は、僕もねえ……」とか、やってますよ。
 確かに中途半端かも知れません。生きていくために、別に仕事を持ってますから。それも、何かの片手間にやれるような仕事ではありませんから。
 1日24時間の内、寝る8時間を除いて、10時間から12時間を生きるために売って、残りの6時間か4時間で顔を洗い歯を磨き、お風呂に入り。その合間の時間をやりくりして中途半端にやってますから。寝てるときも、仕事のことが頭から離れないときだってありますし。
 
 でもね、生き方の際どい部分に散々突っ込みを入れてるのに、難解な詩は嫌いだとか平然と言ってのけて、「なんで物事をそんなに難しく言わなければならないのだろう。理解してもらいたいなら、やさしい言葉でわかりやすくつたえてあげればいいのにと思う。」などと勝手な理屈を並べます。
 詩というものは、ある種の創作というか、言葉を絵の具のように駆使して1枚の絵を描くようなものなのに。そのためには、わかりにくい部分もあれば、作品全体がそういうものもありますよ。頑なに排他的な主張ばかり展開されると、困ったオヤジだなあという気がしてしまいます。
 
 僕の父は「貧乏を知っているのはいいが、慣れ親しむな」と常々口にしていた。
 が、一方では「贅沢は知ってもいいけど、慣れ親しんではいけない」ともいっていた。
 ものを表現する者にとって、何事にしても最高のものを知っておくことは決して損にはならない。
 大切なのは、贅沢をしていてもどの程度それを客観化できるか否かだ。
 
 自分だって、ほら、もう難解な話をしてる。
 
 もちろん、僕が拍手喝采を送った部分もあります。
 断っておきますが、もともと、高田渡は嫌いじゃないんです。
 
 ある時点からベ平連の活動は低迷していったが、代表の小田実はさっさと海外へ行ってしまった。外国の大学で講師になって言った言葉が、「私は日本の市民運動の先端にいた」、である。
 あの時代、最終的に犠牲になったのは学生たちだった。小田実はその学生たちと一緒に活動していたように見せていたが、自分の生活だけはしっかりとガードしていたわけである。戦闘の最前線に兵士を送り込む司令官のようなものだ。自分は安全な場所にいて、ブラウン管に映るときだけ前に出てくる。終わってみれば、何も知らない若者たちがいいように利用されただけだったと僕は思う。ほんとうにむかっ腹が立って仕方ない。
 
 
 僕と同じ高校から、もうひとり同じ大学に進んだ男がいました。
 僕から見たら、特に取り柄があるわけでもなく、善良で、どちらかというと不器用な男でしたが、誰が誘ったのか、ある時初めてデモに参加して、その日はデモが途中からどんどん先鋭化していって、それに連れプロたちは巧妙に後方に引き、素人学生たちは、お約束どおりグイグイと最前線に押し出されていきました。
 そんなこと、僕らみたいな軟弱学生でも、ある意味、常識でしたよ。そうなることはわかってるのに。
 かくして、彼は逮捕されました。
 
 もともと僕とはタイプが違うし、同郷とはいえ彼とは普段は特に交流はありませんでした。だから、まさに虫が知らせたというか、どうして彼の下宿を訪ねたのか記憶がありませんが、ある日部屋のドアを開けたら、そこには「もうまともな就職ができない」と泣く彼の姿がありました。
 情けないほど馬鹿だけど、彼を動かしたのは、他愛のない純粋なヒューマニズムです。ほんとうにむかっ腹が立って仕方ない。
 
 

 
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