週間エコノミスト新年特大号の「敢闘言」と題するコラムで、日垣隆氏が嘆いておられました。 OECD(経済開発協力機構)の最新調査によれば、日本では「1年間1冊も本を 読まない」15歳が53%もいた。32カ国中、最下位であるらしい。 毎日新聞社の「読者世論調査」でも「中学生」は90年代に入って、ずっと「1カ 月に0冊」が50%前後を示していた。高校生ともなれば「0冊」が7割を越える。 私はもう、このような全体状況を憂うることは止めにした。(以下略) 中学生だったころ、僕は本を読んだ方だと思います。 ただ、みんなが読む本は意識して避けていました。結果的にですが、周りの連中が読んでないようなものに興味がわく変な中学生だったのかもしれません。 最も多く読んだジャンルは、推理小説です。コナン・ドイルの「シャーロックホームズ」のシリーズや、エラリー・クイーンの「Xの悲劇」、「Yの悲劇」、「Zの悲劇」。あと、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」をはじめとする殺人事件シリーズ等々、翻訳物の推理小説に夢中だった記憶があります。いま思い出せるのはそれくらいだけど、もっと色々読みましたよ。まるで熱病にうなされるように読みまくりました。図書館にあるそのジャンルの棚を全部読んでしまって、ようやく病は沈静化したのでした。 海外の推理小説を読破してからは、ノンフィクションに向かいました。 登山家の、峻厳なる自然とのかかわりを本にしたものや、チベットのダライラマに関する神秘的で激動波乱のレポートなど。 南の海の鮫狩りの男たちを紹介した本には、肩に大きな歯形傷がある若者や、片足を噛みちぎられた老人の写真などが添えられていて、それでも生きるためには海に出るしかない彼らの厳しい現実を前にしてショックを受けたものです。 田舎の小さな市の図書館に、世界と繋がるタイムトンネルのようなものがありました。 当時は、読書家の中学生は随分いたと思います。 夏目漱石から芥川龍之介、森鴎外、ドストエフスキーにエミリー・ブロンテと、よい子が読む本はいくらでもありましたから。 もちろんそうした方面も、別に読破したわけじゃないけど、少しずつは読みましたよ。かじりました、はい。 といっても、僕の場合、そういうのを読んだのは高校生になってからでしょうか。ほとんど受験対策として。 好きで手にしたのは、梶井基次郎や詩の萩原朔太郎。 あ、また話が脱線しそうになってる。 アニメ映画「耳をすませば」でも、図書館が重要な舞台の一つになっていました。 主人公の女の子が借りた本には、ことごとく、同じ男の子が先に借りた形跡が残されていたんですよね。 確かに図書館は、他校の女生徒とも出会える、ちょっとドキドキする空間でもありました。 古い思い出をなぞりながら、ふと、昨年1年、本らしい本を読んでないような気がしました。読みたいと思って買った本は何冊かありますが、どうも、買っただけで目を通していない気がします。 はっきり読んだと記憶にある本は、「丸ごと一冊マーチンD−28」だけ。タラリ… 原因を分析できませんが、同世代の間からは、最近はもっぱら積ん読(つんどく)だよという声は良く耳にします。 読書離れは、子供たちだけではないのかも。 人間に本を読ませない、そういう時代なのでしょうか。 そういえば、一億総白痴化などと警鐘が鳴らされたのはいつでしたか。 国民を無知にする政策が、どうやら功を奏し始めたか…。 もちろん、本を読む読まないは自由ですよ。 メディアは本だけじゃないし。 読書が、人間の思想や人格の形勢に必ずしも不可欠だとも思わないし。 映像やマンガも、多くのものを教えてくれましたから。 ただ、本でしか得られないものというのは、あるかもしれません。 そして、まとまった量の読書が可能なのは、やっぱり若いときでしょう。 しっかり噛んで、味わうような読書こそ本当の読書かなとは思いますが、考えてみれば、そういうのは成人してからのことです。大人の読み方といってもいい。 若いころというのは、野武士が酒や肉を貪るように、ただ猛然と読み散らす感じでしたが、それでも、砂漠に水が吸い込まれるように、広く深く、どんどん心に染み込み、吸収していったように思います。 そういう時代を持たない子供たちは不幸かもしれません。 ふむ。 僕も、こんな全体状況を憂うのは、もう止めにしようかな。 |