無敵の老人力    2003/08/26
 
 
 最近、すこぶる老人力が付いてきたなと、強く感じます。
 若いころは、許せないことがあれば黙っておられず、すぐに議論をふっかけていたものでした。それが、このごろは、テレビのコメンテーターとやらが勘違いした理論を臆面もなく展開しているのに接しても、お間抜けなニュースキャスターの癇にさわるような発言を聞いても、顔ではニコニコしている自分がいます。
 
 自慢したいことはほかにもたくさんあります。
 少し自由な時間ができたとき、若い未熟なころだと、すぐに何かを始めたものでした。詩のノートを広げたり、絵の具箱を出したり、その余裕時間に見合ったことをたちまち見つけてきては、お店を広げたものです。
 それが、このごろは、ゆったりとソファーに身体を沈め、何もしないで、ただ時の過ぎていくのを感じていることだって平気になりました。

 まだあります。
 若いころは、教科書にボルテール・モンテスキュー・ルソーと書いてあるのを見て、それがひとりの思想家の名前だと思い込んでいました。要するに、カタカナの固有名詞が苦手だったのです。以来、カタカナ名前については、なかなか思い出せないという現象を来たしていました。
 思い出せない名前としてまずあげねばならないのは「モロヘイヤ」です。この野菜は個性的で、僕は好きでよく食べます。なのに、その脈絡もなければ必然性もないカタカナの羅列に、僕としてはいいようのない悲しみを覚えるのです。哀れですらあります。
 それが、このごろは、漢字の固有名詞まで哀れに思えてきました。
 代表的なのは、いうまでもなく人の名前で、そのトップバッターは「………」。
 ほら、出てきません。しかし、あわてる必要も、また、ないのです。こういうときのために、手帳にメモがあります。決まって出てこなくなる人は、油断なくメモしていますから。
 そうそう、「田村正和」ね。
 もちろん彼だけではありません。毎日話をしている職場の同僚の名前だっても例外ではないのです。老人力の高まりとともに、遂にはもうおもしろいように、誰彼なしにどんどん出てこなくなります。田村正和も職場の同僚も、哀れなこと、このうえありません。
 
 うらやましがってもらっては困ります。
 最近僕は、長く埃をかぶっていたギターケースを開き、詩を書き、曲を付けて、再び、まるで不死鳥のように歌うようになりました。アマチュアでCDを作ってる人たちと知り合いになり、僕もやりたいとデジタル録音機、MTR(マルチ・トラック・レコーダー)を購入しました。これを使うと何重にも重ねて録音できるので、ひとりでもにぎやかで奥ゆきのある音が作れるというカラクリです。
 MTR(fostex VF80)は多彩な機能を備えていました。演奏のペースを一定に保つために、例えばメトロノーム機能も付いています。入力した演奏を部分的に削除したり、コピー&ペーストしたりすることも可能です。
 しかし、それら多彩な機能を有効に使いこなすための操作マニュアルは、あまりにも膨大にして複雑で、僕の圧倒的な老人力の前にあっては敵は沈黙するしかなく、すごすごと立ち去っていきました。
 僕は尻尾を巻いて逃げ帰るマニュアルの背中に向かっていってやりましたよ。
「ばーか」
 
 ギターですら、老人力の前には哀れです。
 詳しくは書きたくありませんが、涙を誘います。
 実は、少しばかり凝ったフレーズを弾いていたときのこと。
 そばにいた娘の言葉を借りれば、「よちよち歩きの赤ん坊みたい。おーおー、がんばれ、がんばれ、と声をかけたくなる」のだそうです。
 
 
 どうじゃ、まいったか。
 しかし、なぜ、こんなに老人力が身に付いてしまったのだろうか…。
 
 
 

 
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