路地裏の悪ガキ時代    2008/05/10
 
 
我が路地裏
 この路地裏から、小学校に通っていました。
 中学生になってすぐ、父の繊維卸の会社が倒産するまで。
 僕を育ててくれた路地裏です。
 
 
 ピンク色の部分が、僕らの縄張りで、遊び場でした。
 電々公社のグラウンドは、もちろん柵を乗り越えて入り、守衛さんの姿が見えたら、雲の子を散らすように逃げるのです。警察の道場には卓球台が置いてあって、よく利用させてもらいました。
 おわまりさんたちは見て見ぬふりをしてくれていたので、ここは逃げなくても大丈夫。
 畳敷きの道場の隅には拳銃の掃除をする机があり、手入れをする上での注意書きがポスターみたいに貼ってあったので、ドキンとしました。
 
 ブリキ屋はいつも雨樋を作ってた。その次の空白は、民家。勝ち気なおかあさんが、ハンサムなお父さんと駆け落ちをしてきた家と聞いていました。そのお父さんは病弱で働けなくて、お母さんがミシンの内職をしてた。
 下駄屋は、おじいさんが青竜刀の両端に取っ手を付けたみたいな特殊鉋(地図の肩にイラストを付けました)で桐下駄の仕上げをしていたんですよね。少しずつ刃の加減を変えた似たようなのが何丁も壁に縦に並んで掛けられていました。隣の電気店のおじさんのお父さんだったような記憶があります。
 その電気店は、夕方になると大人たちが店の前に群れ集い、みんなで力道山の活躍を見てたんです。
 鋳掛(いかけ)屋のおじさんは、いつも家の前の路地に「ふいご」を置いて、左手でふいごに風を送りながら、右手でクリームが入っていたビンみたいなの(金属を中に入れて溶かす容器にしてた)をやっとこ(ペンチを細く長くしたような、鉄製の道具)で器用に操り…。
 その左の、「トリ」と書いてるのが、この日記を書こうと思ったきっかけの家です。
相変わらず前置きが長い。(^^)
 
 
 
 
 ここは戦争未亡人の美人の若奥さんが、ハンサムな男の子を抱え、鶏肉をさばいていました。軽トラックで大量に生きたニワトリが持ち込まれると、美人の奥さんはバケツにお湯を張り、鳥の首半分に出刃を入れて生きたままそのお湯に浸けます。それが血抜きでした。
 僕はそれを、土間にしゃがんで、じっと見ていました。あつかましく、堂々と家に入り込んで。
 ある日、「あげようか?」と、鳥の足をくれたことがありました。
 足首から腱が出ていて、それを引くと足がぐーになりました。つまり、マジックハンド。
 あれ、もらったあと、どうしたか記憶にありません。
 僕らは「鶏殺しのおばさん」と呼んでいました。ハンサムな息子さんは、時々姿は見かけていましたが、僕らより少し年上だったからか、一緒に遊んだことはなかった…。
 いま思えば不思議なことです。どことなく上品な感じの美人だったし、生活のためにこんなことをしてるとはいえ、大切な人の忘れ形見は、僕らみたいな路地裏の悪童たちと一緒には育てたくなかったのかなと、いまさらながら申し訳なく思っている次第。はは…。
 
 
 ブリキ屋も下駄屋も鋳掛屋も、いわゆる職人さんたちはみんな、申し合わせたようにラジオを足元に置いて仕事をしていたんです。彼らの近くにしゃがみ込んで、個性的な仕事ぶりを眺めながら僕は、結局は浪花節や落語を聴いてた。自然に聞き覚えて、それを小学校の教室で演じたりして。(^^)
 
てるおちゃんと
 
 写真はとなりの塾のひとり息子(同級生のてるおちゃん=向かって左)とのツーショット。確か「野球少年」とかいう月刊誌があって、彼はそれを定期購読してたんですよね。それが目当てで近付いたのか?
 ソフトボールは、くやしいけど彼の方が上手でしたね。身体は小さいけど、こなれた動きで。あ、てるおちゃんの家にはテレビもあったんです。彼が家族3人で一家団欒、楽しく夕食を食べている横で、僕は平気で月光仮面を見せてもらっていました。
 自分でも信じられません! v(^^)v
 
 書いてたら、次から次へと思い出が繋がって出てきて終わりようがなくなるから、まあ、今回はこの辺で勘弁しとこう。
 …などと、これじゃまるで老害をさらけ出してるようなものか…。
 
 
 

 
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