さよなら三角またきて四角     2000/12/16
 
 
小学生のころは、近所にある小さな神社の境内で、女の子たちとおままごとをして遊んでいました。
残念ながら、ご期待に添えず、お店屋さんごっこです。
みんなが、なにかしらお店を開いて、木の葉のお金で。
売るのが好きなしっかりやさんもいれば、自分の商売そっちのけで買ってばかりのお嬢さまもいました。
そのころ僕が何屋さんだったかは覚えていませんが、お店を持つというのは、子供なりにも楽しいものだったろうと思います。
少なくとも、中学生のとき父の会社が倒産し、家の中が見事にからっぽになったのを見るまでは。
 
子供のころに親の倒産を経験するまでもなく、元々商売というのは大変な面があって、やりたい気持ちはお店屋さんごっこの昔から秘かな芽生えを感じさせてはいても、いざ実際に始めようかとなるとそう簡単ではないし、普通の人は二の足を踏みます。
その大きな壁を越えて一歩を踏み出すのは、だから、普通じゃないタイプの人。よく言えば情熱的な人。少し冷静にいうと、熱病にうなされたように激しく前進するちょっと濃いタイプ。
そういえば、テレビで、『趣味がこうじてお店を開いた』という女性の話を聞いたことがあります。
旅行好きの彼女が、海外でおもしろそうな小物を仕入れてきては売るというお店です。
最初のお店は赤字続きで失敗して、ふたつ目に開いたお店もダメで、現在のお店はみっつ目だと。
前2回の失敗に学び、これは成功して、どんどん店舗数も増えているのだと胸を張っていました。
彼女の話によると、趣味がこうじてお店を開くタイプは、どうしても個性的なお店づくりをしてしまうのだそうです。
自分のイメージを売るというか、自分を押しつけようとするわけではなくても自然にそんな感じになっていって、どうしても品揃えが偏っていって、濃くなります。つまり、そこに並べられている商品が一般的じゃないと言い換えてもいいわけです。これでは売れません。要するに、商業ベースには乗らないのです。
もちろん、僕などはむしろそっちを好む傾向があります。
どちらかというと普通じゃなくて、どこにもは置いてないもの。そういうものを見つけると、使い道などないくせに無性に欲しくなったりします。
店側もそういうタイプの人間がいることを知っているし、そんなお客さんとは意気投合もし、力付けられもします。そして不幸にもこうして、独特の濃さはいやが上にも深められていくのです。
しかし、そういう変なお客は少ないのです。
 
「はじめは、自分が好きなものばかり並べていました。8割は、これだと思うようなおもしろい商品を並べて、その結果失敗しました。そこで、考え方を180度変えて、現地でみんなによく売れている一般的な商品と、自分の趣味に合ったものとの比率を逆にしてみたのです」
そうしたら成功したというのです。自分の趣味は、2割から3割程度に抑えて。
この話には、様々なむずかしい意味が含まれていると思いました。
この話をどう聞くかは、その人の人生観に関わる部分すらあるように思えます。
絵でも、インパクトのある作品は見る人を引きつけますが、力作であればあるほど、逆にむずかしい意味もあります。
パワフルなものを観賞するためには、見る側にもパワーが必要なのです。
だからこそ、リラックスしたい部屋の壁には、淡々とした感じの、いわゆる影の薄いものが好かれるのです。
さりげなく目をやっても、そういう作品は疲れませんから。
濃いと、疲れますから。
そんな風に理論付けて買う買わないを決めているわけではないでしょうが、人間の心理を分析すれば、そんな意外な要因もあるのだということです。
 
やはり濃いのは敬遠される傾向にあるようです。
人間関係に置いても、濃いのはむずかしいのかもしれません。
ふと、誰かといつの間にか疎遠になっていたりすると、何かの拍子に嫌われたのかな、だとしたら、どうして嫌われたのだろうとか、グジグジと考えてしまいます。
多分、世界中のすべての人たちから好かれたいと、無謀なことを考えているのでしょう。
あれこれ悩んでいると、あ、あれかなと、偶然に理由に思い当たることもあるし、原因が分かれば分かったで、また新しい悩みを抱え込むことになるわけです。
でも、あとで気が付いたところで、それがなんになるでしょう。
たしかにそれは、社会に対するある意味での無知です。
人間としてのレベルの違いかもしれませんし、ただ単なる人生観の違いかもしれません。
 
お店に並べられている商品のすべてに、必ず、深い秘められた意味があるというものでもないのです。
むしろ、オーナーはほとんど意味もなく商品を置き、気に入らなければ買ってくれなくていいといっているわけでしょう。
それを求めるか無視するかは、すべからくお客であるあなたの判断次第なのです。
これほど明快でシンプルな関係はありません。
まさに、さよなら三角またきて四角です。
本当は、「また明日もいっしょに遊ぼうね」といいたいところを、僕らはあえてクールを装って、少年の日の夕暮れ時に、こういって友達と別れたのでした。
たまたま、そういう巡り合わせになったら遊ぼう。でも、運命がそれを望まないなら、それもまた仕方ないことだよね。
そんな哲学的なふれあいを予感しながら僕らは、まるで歌うように別れの言葉として口ずさんでいたのでした。
さよなら三角またきて四角。
考えてみたら、僕らは子供のころからおそろしいほどに思慮深い、凄い世代だったのかもしれません。
 

 
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