幸せの不思議     2000/12/23
 
 
 幸せそうな笑顔でテレビに出ている女流ピアニストのことを、「あんなピアノで満足してるなんて、彼女は不幸な女だ」と主張する音楽家の老教授がいて、その人と飲んだことがきっかけで、幸せについて少し考えるようになりました。
 自分に満足している彼女は、本当に幸せといえるのか。
 そういえば、何代か前の東大学長は、卒業式で、『太った豚になるな、痩せたソクラテスになれ』(注)と訓示しました。いままで僕は、この太った豚とは金持ちという意味だと理解していましたが、もしかしたら人生に満足した豚という意味だったのかもしれないと、いま思い返しています。
 
 でもそのときは、老教授と飲みながら、幸せだと思える人が幸せなのではありませんか、と反論したくなったのでした。だって、ごく素直に「がんばった自分を誉めてやりたい」という心境になれる人は、幸せなように思えますから。
 どこまでも自分に満足できないで、激しく自らを叱咤し続ける人は、確かに人間的には死ぬまで向上し続けるでしょうが、それはまるで悲劇の主人公のようで、傍目から見ればおよそ幸せとはほど遠いような気がしますから。
 常に、より高い境地を求め続ける真摯な陶芸家は、妥協を許さない限りは、釜出しした作品を一生割り続けるしかないのです。これ以上の悲劇があるでしょうか
 
 この議論の答を導き出すための一助として、その前段として幸せについての定義をするというか、幸せというものの正体について考えてみました。
 幸せとは何か。
 たとえば春が来て、思いがけず旬の野菜をごちそうになったりしたとき、もしかしたら幸せを感じるかもしれません。
 たとえばとある秋の日に、降り注ぐ紅葉の中で落ち葉の上に寝ころび、遠い日の胸詰まる思い出を温めていたりする時間の中でも、あるいは幸せを感じるかもしれません。
 そういえば、大学受験に合格したときや、子供が志望の大学に合格したときも、喜びましたよ。
 
 でも、こうして考えてみて気付いたことがあります。
 幸せは、長くは続かないと。
 ごちそうも、毎日続くと、さほど幸せには感じなくなるものです。
 秋の日の束の間の安らぎも、その時間が一瞬であり、毎日延々と続くものでないことを知っているからこその幸せといえるでしょう。大学合格を喜んでも、入学してしまえばもはやそれはありふれた日常と化してしまいます。
 どんなに幸せだったことも、刻々と、普通のことへと変化していきます。
 幸せを噛みしめる心は美しいし嘘はないでしょうが、同時に、ごく儚いものであることも認めざるを得ません。
 幸せは、儚い。
 
 もちろん、これは幸せのひとつの顔にすぎないのかもしれません。
 永遠の幸せ、絶対的な幸せというようなものも、もしかしたら、捜せばどこかに転がっているのかもしれません。
 ただ、幸せでなければ不幸かといえば、そんなこともないからおもしろいわけです。
 普通のこと、普通の時間というものも大切だし、貴重なものだと思います。
 当たり前な時間が、当たり前に過ぎていく。
 件の女性ピアニストも、もしかしたらそこのところが分かっているから、あんなに幸せそうに笑っているのかもしれませんし。
 
【蛇足】
生まれながらにして苦労知らずで、何不自由なく育ち年老いていく定めの人は、僕らが思っているような幸せは、一生実感できないと思うのです。
悲しみや苦しみを体験してこその、幸せであり喜びでしょう。
多分、ね。
 
(注) この言葉は、あらかじめプレス各社に配られた演説原稿の中にはもちろん書かれていて、その部分が新聞記事でもふれられ論評されていたから僕らも記事をとおして目にしたわけですが、実際の卒業式の演説では省かれ語られなかったという話を聞いたことがあります。
真偽のほどは知りませんけど。

 

 
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