熊も倒してないのに     2001/01/08
 
 
 さっき見たテレビのニュース番組に、晴れ着姿の女性のグループや、近代的な都市の風景には似合わない和服姿の青年が映し出されていました。
 この時期にはめずらしくもない、成人式です。
 会場周辺は、一面の同窓会模様。高校卒業以来離ればなれだった懐かしい顔たちと久しぶりに出会い、積もる話をし、旧交を温めるにはまたとない機会です。
 そういう意味では微笑ましいし、冬の寒空に晴れ着の花が絢爛と咲き乱れるのを見るのも悪くありません。多少七五三めいた滑稽さには、この際、目をつむってもいい。
 そういえば昨年は、成人式のアトラクションとして、テレビで人気の某大学教授に講演依頼した町のニュースが世間の話題にもなりましたよ。クイズ番組などでおなじみの、比較的感じのいい先生です。確か、エジプト考古学が専攻という異色の。
 でも、いざ先生の講演が始まるというと、会場内は私語や携帯電話が狼藉の限りを尽くし、結局は教授が激怒して一巻の終わりだったとか。
 成人式を主催する側と、そこに集まる若者たちとの間に目的意識に差があることは分かっています。
 だからでしょうか、今年はその差を埋めるために主催者側が譲歩して、式場の周辺には集まっても式典の会場に入ろうとしない若者たちのご機嫌をとろうとしてか、町によっては、アトラクションとして、パラパラを踊るダンスチームなどを呼んでいると報じていました。ステージのパラパラにあわせて、席で和服姿のまま立ち上がって踊っている新成人たちのカットなども添えて。
「そうまでしないと(新成人を)集められないのなら、やめたらいいのに」と、隣で妻は憮然としていました。
 まったく、そのとおりです。
 誰のための、何が目的の成人式なのか、これではさっぱり分かりません。
 
 いえ、本当は、見当は付いているのです。
 多分、新成人たちを前に名前を売っておきたい人たちはいるのでしょう。名前を売っておきたい事情のある人たちが、おそらくは何人も。
 
 いまのやり方がどうかなと首を傾げているだけで、別に、成人式そのものに罪はないと思っていますよ。
 子供だったものが、一人前の人間として認められる、その儀式が成人式なら、そこにはちゃんとした意味がありますから。
 何でもいいんです。
 それまで子供とされていたものが、何かをきっかけに一人前の人間として認められたら、家族そろって、あるいは社会全体で、大いにお祝いをしてあげたらいい。今日からは、一人前だよ。俺たちの仲間だぞ、と。
 アメリカインディアンの中のある部族では、熊を倒したら一人前の男として認められるのだと、今日の毎日新聞の余録が書いています。最近流行のバンジージャンプも、元々は、アフリカかどこかの部族の、勇気を試す成人式の儀式だったんじゃなかったでしょうか。確か、いまにも切れそうな蔦を足首に巻いて、高い木の上から真っ逆様に飛んでは肩から地面にぶつかったりしていましたよ。
 要するに、そういうことです。それが成人式でしょう。
 法律で二十歳という区切りを設け、それを過ぎたら大人として扱いますと決めるのは法治国家の中では仕方ないとしても、どう考えても、それはそんなにおめでたいこととは思えません。
 だって、熊も倒してないのに。
 めでたいという自覚もないのに集められても、その気にはなれないだろうし、とりあえずそこに懐かしい連中の顔があれば、じゃおしゃべりでもしようか、ということになってしまう気持ちは理解できなくもありません。
 でも、もし仮にそうなら、会場にいかなきゃいいのにね。同窓会ならどこででもやれる。そんな気がしますよ。
 あ、でもダメかな。子離れもできてない親を喜ばせるためには、晴れ着も着なきゃならないかもしれないし。そうなると、会場周辺までは足を運んで、一応は出席した格好にしとかないとね。そうか。わかりました。若者たちに罪はない。
 
 この時代に熊を倒せとはいわないけど、少なくとも家族で子供の成人を祝うべきときは、自動的に二十歳になったときではないはずでしょう。もしかしたら、初めて給料を手にしたときかもしれません。例えばそういう瞬間だと思いますよ。
 よく『節目』という言葉が好きな人がいますが、本当の節目とはどういう意味なんでしょうね。
 生きていれば誰だって、時間さえ経過すれば自然に二十歳にはなります。
 
 

 
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