僕「入院しょうかようたけど、どうなんなぁ、親父の調子は」 母「ええんよ。だいぶ戻ってきたけえ、もうちょっと様子を見るようてよ」 僕「ほうな、ほんならええ」 母「あ、ちょっと待ってな」 母「おとうさん、monsieur王子から電話じゃけど、なんか用事がある?」 父「いーや、特にはにゃあ」 僕「ほうな、まあ、風邪ひかんようにきゅーつけて、ぼつぼつな」 それが午後6時のこと。 僕が聞いた、父の最後の声でした。 午後9時に、父は弟に電話をして、 父「おう、今から病院へ行くけえの。あとを頼むで」 それが、弟が聞いた父の最後の声。父は弟にそう告げたあと、母に呼ばせた救急車に、自分から歩いて乗り込んだそうです。 それほどしっかりしていたのに、救急車が病院に着いたとき、父はもう息がなかったとのことでした。 父は最近、死期が近いことを自覚していたふしがあり、 「もういつ死んでも思い残すことはないが、無様な死に方だけはできん」 見栄っ張りな父らしく、しきりにそんなことを気にしていたと母から聞いていました。 そういう意味では、親父らしい颯爽とした最期だったとも思え、そういう運命を与えて下さった存在に対し、感謝するしかありません。 父は志願して航空隊に入り、飛行機乗りとしてアジア各地を飛び回っていたようです。僕が子供のころに見たアルバムには、何枚もの様々な型式の飛行機の写真と、それらの横で胸を張り、微笑んでいる父の写真が並んでいました。後半は憲兵として中国大陸を駆け巡り、上海の虎と呼ばれていたというのが父の自慢でもありました。 命がけの諜報活動や上海租界での栄耀栄華のエピソードなど、動乱の時代を波瀾万丈に生き抜いた話を、子供のころ、毎晩のように聞かされたものでした。 帰国後、母と結婚し、市役所で農地改革を担当し農林大臣感謝状までもらいながら、職業軍人であったために公職追放にかかり職を失いました。慣れない商売の道に入ったのはそのためで、自分でも殿様商売と自嘲していましたが、父にとって、まさに苦難の時代の幕開けでした。ただ、おかげで我が家にはいつも従業員の若いお兄さんやお姉さんたちがいて、みんな僕のことを可愛がってくれてましたから、僕が中学生の時にその会社は倒産するわけですが、それまでは、お坊ちゃまとしての地位をほしいままにして、なかなか楽しい時代でもありました。 僕が家を出て他県に就職することを考えたとき、僕は長男でしたから、馬鹿者! と父に一喝されるのを覚悟でこわごわ相談したわけですが、 「わしは思うように自分の人生を歩いてきた。お前も、自由に生きたらええ」 そういって、笑って送り出してくれました。 そんな剛胆な父が、こんなふうにあっけなく、卒然と旅立ってしまおうとは…。 人間の命のはかなさを、感じざるを得ません。 |