青春の新譜ジャーナル    2005/08/24
 
 
 かつて、歌がレコード以外ではテレビでしか聴けなかったころ、関西のラジオ局のみで流れる、アングラと呼ばれる歌がありました。
 アングラソングは、パーソナリティと呼ばれる人たちの手によって、当時の若者たちに紹介され、ひそかに支持を広げていったのでした。ラジオの功績も大きかったけど、若者にとっては兄貴的な存在だった当時のパーソナリティたちなくしては、アングラはアングラのまま、この世の光を浴びることはなかったと思います。先ごろ世の中を騒がしたライブドア事件で脚光を浴びることとなった日本放送の亀淵社長も、そんなパーソナリティのひとりでした。
 
 アングラソングというのは、例えば外国のフォークソングに染まっていた人が、ある日ふと、日本人なら日本語で歌おうと、向こうのメロディに日本語の歌詞を乗せたり、ベースは向こうの曲かもしれないしギター伴奏だってコピーだけど、旋律を変え歌詞も全く別のものにして、日本のフォークソングとして歌ったりしていたものです。日本民謡やわらべ歌をアレンジしたものや、もちろん日本的な独自の旋律に歌詞を付けた歌もありました。
 それらにいつしかロックも加わり、ジャンル分け不明な連中も出てきたりして、テレビなどではそれらを一緒くたにして、ニューミュージックなどと称するようになっていきました。
 新譜ジャーナルが創刊されたのは、そんなころだったような気がします。
 月刊の音楽雑誌で、それまではラジオでしか聴けなかった曲の譜面が、そこには載っていました。僕ら世代にとっては、いわば青春のモニュメントといっていい宝物です。
 
 とはいえ、当時の世の中=テレビは、老人は演歌、若者は歌謡曲と厳然たる住み分けが出来ていて、ギター1本で貧乏ったらしく歌うフォークソングなどに関心があるのは少数派でしかありませんでした。
 だから成人し職場の飲み会などでも、ほとんど同志とめぐり合うことはありません。皆無とはいわないけど、稀です。しかも、僕より年長者で同志というのは、ただひとりだけ。
 そんな貴重な、秘密の同志が、K兄です。
 
 そのK兄から、新譜ジャーナルがたくさん届きました。どれ一冊とってみても、本当に涙が出るほど懐かしい。まさに、僕らの青春のモニュメント。
 もちろん僕も熱心な購読者でしたが、独身時代の何度かの転勤に伴う引越しで、荷物を整理するたびに、そのときに気に入ってた曲のページだけ切り取って残し、あとはやむなく処分するといったことの繰り返し。だからいまは、無傷なものは2、3冊しか手元にはなかったのです。これで宝物が増えました。
 
 いま、たまたま手にしている一冊は、表紙写真が加川良。タイトルに、【新譜ジャーナル創刊6周年記念特大号】とあります。
 といっても、ボリューム的にはちっとも特大じゃありません。ページ数は他の月の号と同じに見えます。
 ただ、企画物がある。友部正人、高田渡、五輪真弓、中川五郎、泉谷しげる、よしだ・たくろう(拓郎は当時はこんな表記だったんですね)の面々がエッセイを寄せています。【あれから6年、これから6年】という特別座談会も。
 ステージに立つ者も、プロデュースする者も、多分みんな20代で、みんな若かった。
 
 でもね、いまこうして眺めてみると、ちょっと変です。
 僕らとは関係ない、いわゆる歌謡曲が結構並んでいます。ターゲットが僕らだけじゃ、食えなかったのでしょうかね。それとも、歌謡曲を僕ら向けに宣伝してあげることで、レコード会社からいくばくかの宣伝料が入ったのでしょうか。
 経営的には、確かに楽ではなかったでしょうから。カットだって、よく見れば同じ絵を使い回ししてるし。
 こうして振り返っていると、リアルタイムでは気付かなかった、そうした黎明期の苦労もうかがえて苦笑してしまいますね。
 良くも悪くも、少人数の若者たちが力を合わせて取り組んでいた時代の息遣いというか、荒削りな雰囲気が伝わってきて、胸が熱くなりました。
 
 僕などが少しお金が自由になるようになって、レコード店にリクエストしておけば好きなLPが届くようになり、楽器店の楽譜コーナーに行けばニューミュージックの行き届いた編集の楽譜が自由に手に入るようになると、いつしか新譜ジャーナルを買わなくなり、ほどなくして、僕らの宝物は廃刊になったのでした。
 1万2千円のヤマハのフォークギターが高くて買えなくて、確かスズキというメーカーのギターを鳴らしてたころの思い出です。
 
 

 
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