そこはかとなく泡消ゆる夕べに    2001/08/24
 
 
 芝居を見に行こうと妻と街に出て、少し時間があったので、久しぶりにキリンシティに入りました。
 アダルトな雰囲気でビールをたしなむには、キリンシティは悪くありません。岡山表町にあった丸善がシンフォーニービルに移って、その跡地にキリンシティが入ったときは喜んだものです。アダルトな経営感覚が僕のお気に入りでした。オープンしたてのころは、よく通いましたよ。
 子供たちは、にんにく屋か白木屋でワイワイ盛り上がってたらいい。
 おじさんたちのプライベートな時間は、ここにある。
 そんな感じがしていました。
 この店を教えてくれたのは、僕の掲示板【辞世の歌】でおなじみの、海賊氏だったと思います。(余談ですが、こういう気のきいたお店の案内役は、僕の場合、かなりなウエートで海賊氏です)
 この、アダルトでちょっとイカシた感じのキリンシティが、来月早々に閉店すると聞きました。
 そうか……。
 そういえば芝居の日も、お客は僕らの他には、サラリーマンが1人と、外人の女性が1人だけのさびしい店内でした。
 なぜこうなったか、思い当たる節がないわけではありません。
 
 キリンシティは、基本的にはビールを飲ませるお店です。
 そして、キリンは、注ぎ方にこだわります。
 キリンの場合は、厳しい研修を受けて合格した人間だけが、作法に則り、お店でビールを注ぐことが許されるのです。
 さて、その方法は、まず、ビールをたっぷりと泡を立てるようにグラスに注ぎ、そのまましばらくカウンターに置きます。放置するといっていいでしょう。
 グラスの上半分を占める大量の泡が、時間とともにプチプチと消えていき、グラスの上に少し空間が生じると、再びそのスペースに、ビールを意図的に泡立てるようにして注ぎ足します。どうも、これを3回くらい繰り返すようです。
 最盛期、僕らは仲間とアダルトなおしゃべりを楽しみながら、時々、カウンターに放置されたそのグラスへ恨めしく視線を走らせたりしたものです。いくつかグラスが並んでいたりすると、注文したタイミングからして、あの右から4個目のやつが僕のだな、とか思いながら。
 そんな風に焦らされるのは、それはそれで楽しみでもありました。
 芳醇に透きとおったビール本体を、あくまでも空気と遮断するために、表面に大量の泡を乗せるという手法にこだわっているのです。ビールは空気に触れるとまずくなる。だから、大量の泡で空気を遮りたいのです。こうして待たせるのも、お客に少しでも美味しいビールを飲ませてやろうと思えばこそですから、もちろんこっちとしても腹は立ちません。
 大丈夫です。何回か行くと、どれくらい飲んだところで次を注文したらいいか、そのタイミングもわかってきますし。
 
 ただ、僕が疑問に思ったのは、泡というのは、つまりはビールの薄い膜であり、泡の中にあるのは正真正銘の空気ではないかということでした。いいかえれば、ビールを空気から遮断するために意図的に作られた大量の泡は、すなわちこれは紛れもなく空気と触れているわけであり、泡が消えビールとしてグラスに戻った時点で、それは時間をたっぷりとかけて空気に触れさせたビールということになってしまうのではないかということでした。
 そして、キリンが自信満々のこの注ぎ方には、もうひとつ、致命的な欠点がありました。時間をかけるあまり、ビールが温もってしまうのです。
 春先や秋なら、さほど気にはなりません。でも、夏はいけません。
 真夏、風が煮えたぎった日の夕方は、テーブルに座っているだけでもジメジメと汗ばみます。ンな日にこのビールかよ、な気分にさせてしまってはまずいでしょう。猛暑の日には、ビールはやはり、ギンギンに冷やしたグラスに注いで欲しい。空気に触れさせないために意識的に泡立てるのはいいけど、その場合でも、あふれる泡にかまわずにどんどん注ぎ、余分な泡は捨てるものと考えて欲しかった。そうすれば、空気に触れない新鮮なビールのままで味わえるし、生温かくもならないのに。
 でも、いくら僕がこう、口角泡を飛ばして力説しても、カウンターでグラスを構えているお嬢さんはロボットのまま。研修で身に付けた、『正しいビールの注ぎ方』しか出来ないに決まってる。
 
 『勝利の方程式』という言葉が好きな監督がいますが、僕は、方程式を欲しがるのは、頭が良くないか、少なくとも考えるのが不得意な証拠だと思っています。
 方程式があれば、便利ですよね。機械的にやるだけで、何も考えなくていいから。でも、そんな便利なものなど、本当は、人生のどこにもないと思いませんか。
 過ぎ去った時間は泡のように消え失せ、戻ってはきません。同じ時間や状況が再び訪れることもないのです。同じ時間がないのなら、似たような分かれ道に見えても、それは、いつかの道とは別の道です。
 
 江戸時代以前から今日まで、おびただしい数の囲碁が打たれてきましたが、ひとつとして同じ対局はないといわれています。
 もちろん、過去に学ぶことは大切だと思います。囲碁をたしなむ以上、僕自身、達人の打ち碁を並べたことはありますし、定石(注)も覚えました。しかし、定石は丸暗記すればいいというものではありません。定石を覚えるということは、実は危険な意味があるのです。『定石を覚えて2目弱くなり』という囲碁川柳もあります。定石を覚えたら、忘れなさい、とも教えられました。
 定石は、知識として知っておくことは必要だけど、丸暗記は禁物。状況に応じてその都度自分の頭で考えなおして、柔軟に使いなさいということなのです。
 もし人生に方程式があるとしたら、それでしょう。
 知識としては知っておく必要があるが、それを使うときは柔軟に。
 そこを、勘違いしないようにしなければ、せっかくの努力も泡と消え、美味しいビールすら出せないということになってしまいます。
 
 
 
 
(注) 囲碁の部分的な手順で、研究され尽くして、双方最善の応手として確立されているものを定石といいます。

 
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