食べる異端のイタリア    2001/03/25
 
 
スパゲッティを、フォークだけでなくスプーンを受け皿のように使って、その上でクルクル回して巻き取って食べる日本人を見て驚いたと、ある本にイタリア人が書いていました。まるで二刀流の宮本武蔵を見るようだったと。
そんな光景なら、僕も見た記憶があります。そのご婦人は自信に満ちた仕草で、本場では、イタリア人はみんなこういう食べ方なのよとでもいわんばかりに、にこやかに微笑みながら食事を楽しんでおられました。
スパゲッティにスプーンを使うシーンというのは、たしかに日本ではそう珍しくないような気がします。
ステーキを注文した人の席にナイフとフォークが準備されるほどには、スパゲッティを注文した人の席には、必ずしもスプーンまでは置かれないかもしれません。
でも、わざわざウェイターに頼まなくても、そういう種類のお店のテーブルには、いつでも自由に使えるようにフォークやスプーンが気の利いた飾りの籠の中に常に用意されていませんか。
そして、スプーンを使った食べ方をしている人の所作は、なぜか優雅で、自然な振る舞いに見えてしまうのです。
いったんそうした情景を見てしまうと、フォーク一本でだらだらと食べていたいままでの自分が無性に恥ずかしくすら思えてしまいます。どことなく粗野な感じで。
 
外国の人たちを驚かせた話としては、洋食のライスを、器用にフォークの背中に乗せて曲芸師のように食べる日本人の鮮やかさというか滑稽さというか、そっちの方が話としては古典的で、有名でしょう。
何か雑学関係の本で読んだことがあります。その昔、デパートの高島屋で洋食のマナー講習会をやったとき、ライスはフォークのどちら側に乗せて食べたらいいかという質問が出て、その時の講師が、名前の呼び方だって向こうは姓と名とが日本とは逆だからと思ったのかどうか、要するに本当のところはわからなくて、その時とっさに、「背中に乗せなさい」と答えたのが始まりだと書いてありました。
この話には異説もあると、別の本で読んだりしましたが、そんなことはさておき。
現在では、マナーとしては、腹でも背中でも、ライスはどちらに置いても良いということになっているようです。背中に乗せてるのはいまでも多分日本人だけだと思うのに、どうして「どちらでもいい」ことになるのか理解に苦しみますが。
でも、僕は不幸なことに背中方式で覚えてしまい、それでナイフとフォークの歴史が始まりましたから、いまだに背中に乗せている始末です。いや、レストランなどで秘かに様子をうかがっていると、決して僕だけでなく、多くの人々が我が国では背中にライスを乗せていますよ。
 
そういえば、どうなんでしょう。
いまでも、女子高生たちは卒業が近づくと、テーブルマナーの実習と称して、みんなでホテルのレストランに大挙して繰り出しては、ナイフを巧みに操ってはフォークの背中にライスを乗せ、スパゲッティはフォークとスプーンで丸めて口に運んだりしているのでしょうか。
思うに、これらは、もはや日本独自の文化といっていいかもしれません。
こうした、独自の様式美を創造しては、限りなく深めていこうとする飽くなき日本人。
ああ、素晴らしいことです。
 
その一方で、ピッツァを手で食べる日本人もいます。
僕など、しばしば手で食べます。あ、いえ、もちろん、手を使って口で食べるわけですけど。
当然の流れで、手に着いたチーズやチリソースなど、舐めたりもします。
イタリア人が見たら、きっと眉をひそめることでしょう。
ピッツァがインド料理でないことは、僕だって知っています。
イタリアでは、ナイフとフォークで食べるものらしいですから。
でも、あれは、手で食べる方が断然おいしいと思うのです。
ひと切れを手に取り、中央をペコッと縦にへこませて、トッピングの具をこぼさないように用心しながら口に運ぶ。これでしょう。
切るのだって、クルクル回転するカット専用の器具を使えば、ナイフなんて要らないし。
フォークの背中にライスを乗せるのだけは別にして、スパゲッティを食べるのにスプーンを使ったり、ピッツァを手で食べたりというのは、ある意味で合理的なのかなとも思います。
便利だから誰かがそうして、それが広まる。
文化とは、そういうものかもしれません。
暮らしの、必然の中から生まれて。
 
残業する日、時間を惜しんでデスクワークに没頭したいとき、何人かで宅配のピッツァを注文することがあります。
そんなとき、ナイフとフォークでなんか、とても食べる気になりません。やっぱり、手で、こう、端の固いところから斜めに傾けて摘んで、チーズのとろけている先端にかぶりつくのでなくては。
ピッツァは、たしかに、チャパティでもナンでもないんだけど。
 
 

 
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