人間の食料として、食べられるために育てられている動物たちがいます。 牛たちは、ほとんどが病み、獣医から頻繁に抗生物質を与えられていると聞きました。 最近、人間たちに抗生物質が効かなくなったのは、そのことも関係あるのではないかとささやく人たちもいます。 抗生物質漬けで育てられた肉を食べているから、特効薬だったはずの抗生物質が効かなくなったのだと。 真偽のほどは知りません。 牛以上にデリケートだともいわれている豚たちについては、どうなのでしょうか。 「哺乳類なのだから鯨を捕るな」と声高に叫ぶ人たちに向けて、「牛は殺してもいいのか」とテレビで聞き返していました。 それに対する回答は、こうです。 「牛は家畜であり、頭数を管理できる。鯨は自然に生息していて、頭数が管理できないから牛とは違う」 でも、それはおそらく、捕鯨に反対している人たちの意見を代弁したものとはいえないでしょう。 反対する理由は、その残虐性ゆえにだと想像します。 捕鯨に反対している人たちは、資源保護の観点からではなく、ヒューマニズムに基づいてのことなのでしょう。 「我々と同じ哺乳類なのだから」といっているのは、そういう意味です。 頭数さえ管理できれば鯨を殺してもいいと考えている人など、ほとんどいないでしょう。 テレビ画面で回答した人は、つまり、言葉に窮した。 とっさの思い付きだったのでしょうが、誰ひとり納得させることのできない論理でした。 屠殺場で、牛や豚に引導を渡す場面を目の前にしたら、「鯨を殺さないで」という人たちは、きっと、「牛を殺さないで」と絶叫するでしょう。 そして、そのあとで、人間が生きていくためにはそれも必要なことなのだと知るのでしょうか。 学生時代、屠殺場で動物たちが哀しげに泣く声を耳にした友人は、そのあと1週間くらい肉が食べられなかったといってましたから、彼らもまた、二度と肉は口にすまいと決心して、1週間ほどは牛肉を断つのでしょうか。 犬について、一部の学者の中には、彼らは人間の言葉が理解できるという人がいます。人間の言葉を理解していると考えなければ説明できない、そういう事例がいくつもあるというのです。喋ることはできないけれど、ヒアリングはできるのだ、と。 そういう本を、犬の専門家のデスクの上で見つけ、借りて読んだことがあります。 もし万一そうであるなら、牛もまた、人間の言葉を理解するのかもしれません。 日本に生まれ、日本人の子供たちや大人に話しかけられながら育てられれば、自然に日本語が理解できてしまうのでしょうか。 だとしたら、これは、ある意味で悲劇です。 彼らは、一体何歳になった時点で、自分たちが餌として育てられていることに気付くのでしょう。 誰であれ、命あるものはいずれ死ぬと悟って、生きている今をこそ大切にすごそうと、そう思って毎日を暮らすことができたのでしょうか。 いえ、彼らはストレスを溜め、病み、その治療として抗生物質を打たれるのです。 気分転換にと草原に引き出されたところで、気分が晴れるはずもありません。 刑場に引き出されるときの心境は、どんなだったのでしょう。 彼らの育てられる悩みと苦しみの前では、むしろ、大海原を泳ぐ鯨を捕獲する方が、何倍も罪が軽いように思ってしまいます。 牛や豚たちの運命を考えると、捕鯨に反対する人たちだけでなく、僕らもまた、自ら菜食主義者になるほかないのでしょうか。 しかし、そうなると、虫さえ殺す恐怖の遺伝子を組み込まれた、植物性タンパク質が目の前に立ちはだかっています。 では、仕事も人間関係も投げ出して、自給自足しますか。 結局は、心を込めて、手を合わせ、「いただきます」というしかありません。 僕らは道具を使う残酷なライオンなのだと、自覚して。 ムッシュ |