「生きるために俳優になって・・・・あっというまに40数年・・・・時が経ちました」 日本アカデミー賞で4回目の主演男優賞を受賞した、高倉健さんの言葉です。 いいなあと思いました。 健さんが、「俳優は僕の生きがいです」といわなくてうれしかった。 僕らの時代もそう。スタートは、「生きるため」でしたよ。時間を積み重ねていくことによって、「生きるため」以外のいろいろな意味合いが加わってくるけど。 息子も、彼の言葉に気付いてくれただろうか。 まだ、無理かな。 僕が少年時代の健さんは、東映やくざ映画の主役と決まっていました。 その映画自体は、社会的な評価はむしろ最低で、僕らの仲間たちもほとんど無関心でした。 ただ、観たこともないくせに、健さんに憧れてた連中というのはいました。 (あ、いや、僕が勝手にそう思い込んでいただけで、観てたかもしれませんが) 故郷は、中学の英語教師が「東洋のシカゴ」と訳したほどのやくざの街で、そういう意味で東映の任侠路線はある程度話題にはなり、興行成績的にもそこそこだったのでしょうが、申し訳ないけど、僕は観にはいかなかった。 テレビやラジオから「唐獅子牡丹」は流れてきましたが、もちろんレコードは買わなかったし。 健さんに目がいったのは、大学で出会ったひとりの先輩がきっかけでした。 僕が生意気な1年坊主の時、その先輩は美術部長。 彼が本当に凄い人だったのです。 瀬戸内のとある島に生まれた彼は、母親と妹さんとの3人家族で、高校を卒業したら、いわば1家の大黒柱として働かなければいけない立場でした。そのことを自覚しながら、先輩は、「大学に行かせてほしい」と家族に頼んだのだそうです。 もちろん、1円の仕送りもなし。 下宿先の子供に勉強を教えて、その授業料で下宿代を相殺。あとは、時間単価の高い夜の肉体労働を選んで授業料や生活費を稼ぎ、がんばっていたのです。 大学の成績もよく、スポーツも、先輩とはバレーボールとソフトボールと卓球をやったことがありますが、どれも僕よりはレベルが上でした。 僕だって、それらの球技には、一応少しは腕に覚えがあるのに、です。 多分、美術部で一番絵が下手だったと思いますが、人間的な大きさではダントツで並ぶものがなく、それで部長になった人だと聞きました。 心の中では深く尊敬していましたが、当時の僕はライバル視する気持ちばかりが強くて、逆らってばかりいたような気がします。 この美術部で、僕ほどの技術をほかの誰が持っているんだ、と。 本当に、最低な後輩でしたよ。 この先輩が、高倉健さんの映画が好きでした。 僕も駅前の東映に、一度連れて行かれたことがありました。 おそらくは、そのときが僕と高倉健さんとの最初の出会いだったはずです。 映画館まで出掛けていってやくざ映画を見るなんて、それまでは、考えられないことでしたから。 ただ、映画のストーリーにさほど見るべきものがあったかどうかは別です。 先輩が惹かれていたのは、健さんが一貫して演じていた男性像だったのでしょう。 簡単にいえば、義理と人情を秤に掛けりゃ、義理が重たい男の世界。 それは、ある意味で、人としての生き方を問うものかもしれません。 健さんは、様々な映画に出演し、多彩な役を演じてきましたが、その実、一貫して変わらないひとつの役だけを演じてきたように思っています。 そんな自分を、彼は、「不器用ですから」といいます。 「生きるために俳優になって・・・・あっというまに40数年・・・・時が経ちました」 いま、健さんの口からこの言葉が語られて、胸がつまります。 ムッシュ |